教如(ヘ如[* 1])
永禄元年9月16日[1] - 慶長19年10月5日[1](旧暦)
1558年10月27日[1](ユリウス暦) - 1614年11月6日[1](グレゴリオ暦)(新暦)
教如像[* 2]
幼名茶々麿
法名ヘ如
院号信淨院
諱光寿
尊称教如上人
生地大坂本願寺
宗旨浄土真宗
宗派真宗大谷派
寺院東本願寺
師顕如
弟子宣如
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教如(きょうにょ、ヘ如)[* 3]は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧、茶人。真宗大谷派第12代門主(法主・宗主)[* 4]。東本願寺住職。諱は光寿。院号は信淨院。法印大僧正。父は第11世法主顕如、母は如春尼(三条公頼の娘・細川晴元の養女)。弟は真宗興正派第17世門主顕尊、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第12世宗主准如。子に第13代門主宣如など。
生涯.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに鷺森旧事記の原文「教如御異変之事」があります。
年齢は数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。 永禄元年9月16日(ユリウス暦1558年10月27日)、顕如の長男として誕生。幼少期の動向は不明だが、永禄2年(1559年)に父が勅許で門跡となり、永禄4年(1561年)に親鸞三百回忌が盛大に行われるなど華やかな儀式が続く一方、永禄7年(1564年)に本願寺で火災が発生、寺内町が焼失する災難も起こっている。永禄10年(1567年)、足利義昭(後の室町幕府15代将軍)の仲介で越前の朝倉義景と本願寺が和睦した時、条件として義景の娘である三位殿と婚約(実際に大坂へ下るのは天正元年(1573年))。永禄13年(1570年)2月、父・顕如のもと13歳で得度して新門(新門主・新門跡、本願寺後継者)となった。また近衛前久の猶子になったという[2][3]。 元亀元年9月12日(1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まると、父を助けて石山本願寺(大坂本願寺)に立て籠もり、信長と徹底抗戦する。元亀2年(1571年)6月に永禄10年の約束に基づいて三位殿と婚約[4]。しかし石山合戦で何をしていたのか分かっておらず、味方門徒へ送った軍忠状も天正4年(1576年)に発給した3通しか確認されていない[5]。 天正8年(1580年)閏3月5日、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、大坂本願寺から紀伊国鷺森御坊(現・和歌山県和歌山市)へ退去することになった。教如も講和を受け入れる姿勢を示し、講和条件を受諾した3人の本願寺家老(坊官・奏者)下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝の起請文に顕如と共に請文を添えて勅使へ提出した[6][7]。ところがすぐに講和受諾を撤回して徹底抗戦を主張し、閏3月13日の雑賀衆宛ての手紙で信長への不信感と仏法存続を掲げ抗戦続行を唱え、同じく講和に不満を持つ門徒らと共に大坂本願寺に籠城する(大坂拘様)。これは動揺した父は門徒に教如に味方しないことを書状で伝え、雑賀衆の仲介で父は4月に鷺森へ退去、教如も7月までに大坂を退去することが決められた[8]。教如が何故1度賛成した講和に反対して籠城したのか理由は諸説あり、父子密計説・武力行使による訴訟説・下間仲孝謀略説・雑賀衆協力説などがある[* 5]。 8月2日、前久の説得に応じ、信長に大坂本願寺を明け渡す。その直後に、大坂本願寺は失火により炎上し灰燼に帰した[15][16][17]。ただし大坂退去後も紀伊・美濃・飛騨・越前・越中と各地を転々としながら、甲州征伐に遠征中の織田軍の後方攪乱を狙って越中一向一揆の扇動を図ったとされ、反信長の姿勢を崩していない(小泉義博 また大坂拘様で籠城したり教如を支持した門徒たちや本願寺幹部が結集して、教如教団ともいうべき集団を形成、後の本願寺東西分裂へ向かう元となったとされる。下間頼龍・慈敬寺証智
幼少期、石山合戦
籠城、義絶され流浪