教化団体
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教化団体(きょうかだんたい)は、戦前日本において、国民道徳向上を目的として思想の善導と社会の改善をするとされた団体の種類である[1]。道徳的・精神的に民衆教化することを目的とした。1924年に教化団体連合会を結成し、1929年には教化総動員運動に加わった。その後の戦時体制において戦争協力を行った。教化団体の特徴としては、政府の庇護を受け、各地の官民団体や個人を利用し、民衆が政府の方策を支持し協力するようにその精神面に働きかけた等の点が挙げられる[2]
教化団体の範囲

教化団体連合会は1924年に発足したものの、何をもって教化団体と定義すべきか、その範囲は曖昧であった。創立趣意書は教化団体について次のように抽象的な説明をしていた。

現在わが国には、中央地方を通じて約700の教化団体がある。これらの団体は各々其の立場を異にし、沿革を異にするも、国民の教化を目的として、社会改良に従事せる点は全く同一である。すなわち教化団体とは、時代の推移に順応して、民心を指導し、風教を振作せんと志すものである

この説明は簡単すぎて不十分であったので、当初は実務上、全国教化団体代表者大会などの参加者を募る際に教化団体代表者としての資格を定めるにあたって次のような基準によって取り扱っていた。

教化団体とは倫理的社会改良運動を直接の目的とするもの(但し宗教の宣布、倫理道徳の研究を主たる目的とする団体、および感化院、免囚保護団体、青年団、処女会等を含まず)

このような取り扱いは教化団体連合会内部でも批判があり、教化団体連合会で審議研究を重ねた結果、1925年9月、次のような定義を決定した。

教化団体とは、国民道徳を基調として、思想を善導し、もしくは社会を改善するを直接の目的とする団体を謂う。

これにより、次のような団体は教化団体に含まないことになった。

宗教の宣布を直接の目的とするもの

単に学術研究に限る学会のようなもの

救済や保護感化などの社会事業、および経済的手段による社会政策上の施策を主な目的とするもの

青年団・処女会・少年団・戸主会・主婦会などであって、単に会員各自の修養や会員限定の事業を主とするもの

この定義は教化団体連合会内部でのものであったが、1927年末に内務省社会局において全国の教化団体を調査する際の照会文書で公式に採用された。その調査結果は、教化団体に関する事務が文部省に移管された際に、文部省に引き継がれた。

教化団体連合会が中央教化団体連合会に改組した後は、個々の教化団体は中央教化団体連合会に直接加盟せず、府県連合会等に加盟することになった。また、それまでも府県連合会にしか加盟していなかった団体もあった。このため、個々の団体の加盟の可否を判断する府県連合団体の解釈等の違いにより、上記の定義から外れる加盟団体も少なくなかった。そこで中央教化団体連合会は定義の見直しを進め、1929年3月1日、従来の狭義の定義を廃し、教化団体の範囲を拡げる定義を次の通り決定した。

教化団体とは国民の道徳向上を目的として思想を善導し社会を改善するものを謂う

中央教化団体連合会はこの定義をもって1929年『全国教化団体名鑑』を編纂した[1]
歴史
全国道徳団体連合大会

教化団体の組織化の端緒を開いたのは、1915年11月に京都市内で開催された全国道徳団体連合大会であるといわれる。これは、大正天皇即位礼京都御所で挙行されたのを契機に開かれたもので、元情報将校の花田仲之助らの呼びかけにより58の団体が参加した。大会の中心は、花田の主催する報徳会、および一徳会であった。花田の報徳会は、報徳思想系のいわゆる報徳会はなく、教育勅語を奉戴する団体であり、一徳会もまた教育勅語を奉戴する団体である。この第1回大会には内務省の後援もあり、内務大臣一木喜徳郎が出席して祝辞を述べるなどした[3]

翌1916年には第2回大会が開かれる。これは裕仁親王立太子の礼の契機に東京で開かれたものである。この第2回大会には中央報徳会、日本弘道会、軍事教育会などの教化団体も参加した。このうち中央報徳会については、純然たる道徳団体ではないとされながらも、かねてから道徳の調和のために力を致している関係から主催者に加わることになったという。この大会の初日は600人近くが参加し、文部大臣岡田良平や東京府知事井上友一が祝辞を述べた。2日目には教化団体の全国組織化について初めて議論した[4]

第3回大会は1918年に東京で開催される。この大会は中央報徳会、修養団、日本弘道会、軍事教育会、史跡名勝天然記念物保存会の5団体の共催によるもので、内務大臣床次竹二郎らが出席し、50の教化団体が参加し、300人が来場したが、前の2回の大会と様子が異なり、従来主催者であった花田らの参加を確認できない。教化団体の組織化が議論されることもなく、この第3回大会の後、全国道徳団体連合大会が開かれた形跡はない[5]
民力涵養運動

1919年3月、内務省は民力涵養運動に着手する。明治後期から続けてきた地方改良運動が地方自治体の再編を課題とするのに対し、この民力涵養運動の課題は、第一次世界大戦後の社会不安を緩和することであった。内務省はまず同月1日に「戦後民力涵養に関する訓令」を発し、その5大綱領の第1に「立国の大義を闡明し国体の精華を発揚して健全なる国家観念を養成すること」を掲げる。次いで全国各地で講演会を開き、講師を派遣する。派遣された講師の中には、かつて全国道徳団体連合大会を主催した花田仲之助の名も見える。この間の5月、内務省は地方官を本省に招集して協議会を開催する。内務省が協議会で示した私案には、(1)国民教化の徹底普及を図ること、(2)祖先崇拝の実を挙げること、(3)教育・思想・道徳・宗教に関する諸家および諸団体の意思の疎通を図り、その奮起を促すこと、の3点が盛り込まれた。ここに教化団体の組織化に近い動きを認めることができる。また、内務省は民力涵養運動の実施を中央報徳会に委託する。委託を受けた中央報徳会は、8月末から全国各地で独自に講演会を開催する。翌1920年に内務省地方局が刊行した『民力涵養宣伝経過』では、各地の報徳会などをはじめ、道徳団体なども内務省の趣旨に賛同して会合を開いていたことを伝えている[6]
教化団体の所管を巡る内務省と文部省の対立

1920年8月、内務省は地方局社会課を社会局に昇格し、新設した社会局第2課の分掌事項に「社会教化事業に関する事項」を明記する[7]。こうして内務省が教化団体への関与を進めていったのに対し、文部省も翌1921年の頃から教化団体への働きかけを始める。まずその年の1月に教化団体の理事者を20数名集めて第1回の教化団体連合協議会を開催する。翌2月、第2回教化団体連合協議会を開く。教化団体側の出席者は、日本弘道会、大日本救世団、自慶会、皇民会など10団体14名である。協議会では決議を採択した。それは、国民思想の健全向上を図るため、教化諸団体が時々会合して教化上の協議を行うとともに、連合講演会や連合講習会を開催することを確認するものであった[8]

文部省の第2回教化団体連合協議会は文部省側から課長以下しか出席しなかったが、これに対して内務省は大臣主催の懇談会を開く。すなわち同年4月に床次内務大臣が、大日本救世団、協調会、中央報徳会、大日本報徳社、統一団など11の教化団体の関係者12人を大臣官邸に招いて民力涵養懇談会を開いたのである。床次内相はその席で「民力涵養の実績を挙げようとするには、こういう民間教化団体とも提携し、あい呼応して、同一の目的に進まなくてはならん」と表明し、また「民力涵養ということは、諸君のやっておられる社会教化の運動で、ただ便宜上、民力涵養と名づけているに過ぎないのであるから、今後は更に一層官民一致して、実行を挙ぐるにつとめたい」と述べた。ここに内務省は事実上、教化団体の組織化に踏み出したといえる[9]

これに対し文部省では6月に国民教化講演会を開く。講演会の冒頭で文部省普通学務局長赤司鷹一郎が挨拶に立ち、今回の国民教化講演会は全国教化団体連合大会の開催を視野に入れてその第一歩として開くものであること、国民教化については文部省が所管すること、教化団体の連合化についても文部省が従来から関与していること、等を述べる[8]

翌1922年の5月、文部省の外郭団体である帝国教育会が主催して社会教育協議会を開く。社会教育協議会は、文部省から社会教育振興策について諮問を受け、それへの答申において、社会教育事業を統一する機関を内閣直属に特設することを提案し、また、個人・各種教化団体・各種教化機関・新聞雑誌経営者の間の連絡協調を厚くしてその自発的活動を促進することを提案する[10]

この年の翌年度予算編成で、文部省は社会教育局新設費6万円を大蔵省に要求する。これは、これまで社会教化のために努力してきた社会教育課を昇格させて新たに社会教育局を設けるための要求であった。この要求について文部省は社会教化事業の専管化をかなり重視したと考えられる。この後も文部省は社会教育局新設を具体化していくが、その際に教化団体の所管に拘りを見せる[11]

翌1923年の6月、文部省は社会教育局の新設費として30万円余りを見込み、新設する社会教育局において社会教育施策を総て統一し、それに教化団体を所管させることを計画する。そして、たとえ大蔵省が30万円余りの新設費を認めなくても、文部省としては2万円程度の最小規模でもいいから社会教育局を設けたいという意気込みを示す[12]

この年の翌年度予算編成では内務省と文部省がそれぞれ教化団体調査奨励費(教化団体への助成金)を要求して対立する。大蔵省において両省関係者が合議した結果、教化団体調査奨励費は内務省外局の社会局の予算に計上されることになる。ただしそれを実際に支出するときは文部省との協議を要することに決まる[7]
教化団体を組織化する動き

1920年に文部省が開催した教化団体連合協議会について、後に文部省はこれを回顧して「連合会組織の機運をつくった」と自画自賛するが[13]、内務省に言わせると「文部省でも之(連合会組織)を試みて余り結果の挙がらなかった実例がある」というものであった[7]

このほか、政府が関与したかは不明であるが、1922年に後藤武夫が「大日本教化団体連合会」なるものをつくったという説がある[14]。一説には後藤が組織した団体の名は「大日本教化団体連盟」であったともいう[15]。また、花田仲之助の報徳会によると、1923年、花田は全国の教化団体が連合する必要を痛感し、同志の一徳会とともに、東京の主要な教化団体と何度も交渉したが、どうしても協議が進まず、そのうちに関東大震災が突発し、困難に陥ったという[16]


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