教会改革
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教会改革(きょうかいかいかく)とは、11世紀半ばから12世紀半ばにいたる中世ヨーロッパキリスト教教会における改革。教皇権王権に対して優位となった。改革以前までは聖職者と俗人がともに教会(エクレシア)に属していたが、教会改革において俗人が次第に締め出されて、教皇首位権のもとに教階制(ヒエラルキア)へと統合されていった[1]。教皇改革[1]、教皇革命ともいう[2]。従来知られてきた叙任権闘争グレゴリウス改革を含めて、さらにその前後のより広い時期を指す[1]
名称

関口武彦は、従来知られてきた叙任権闘争グレゴリウス改革という理解に代わって、教皇改革という呼称を提唱している[1]。以下がその理由である。

A・フリッシュのいうグレゴリウス改革という概念では、教皇グレゴリウス7世の功績を過大評価しているし、王権と祭司権の対立を巡る改革がグレゴリウス7世以前にまで適用されるのは不適切である。

教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世との対立の原因は必ずしも叙任権を巡ってのものではなかった。

俗人叙任を巡る本格的な論戦が開始されるのは、ハインリヒ5世が即位して以降である。

従来の「叙任権闘争」や「グレゴリウス改革」理解では、1122年ヴォルムス協約を終期とされてきたが、翌年のラテラノ公会議での改革方針が貫徹されていく過程を視野におさめる必要があり、ルキウス2世(在位:1144年 - 1145年)が目安になる。

ド・リュバック、ラードナー、カントーロヴィッチらの中世政治神学研究によれば、教会を一つの神秘体(unum corpus mysticum)として捉える見方は12世紀半ばであり、「キリストの神秘体」が強調されるのは、教皇改革による聖職者主義への反動であった。

また、グレゴリウス改革はたんなる改革ではなく、神聖ローマ皇帝は世俗的な権威にすぎないとして、聖職権能を教皇が独占しようとするもので、「前ヨーロッパ」の秩序を根底から覆すものであったという意味で教皇革命ともいう[2]。アメリカの法制史学者ハロルド・バーマンは聖俗混交を覆すものであった点で「教皇革命」と呼び、山内進もこの用語を使用している[2]

このほか、教皇史学者ゲオルク・シュトラックは1050年から1120年にかけての時期を改革教皇権の時代として特徴づけられるという[3]
歴史

11世紀半ばから12世紀半ばにいたるヨーロッパの教会改革では、それまで聖職者と俗人がともにエクレシア(教会)に属していたのが、俗人が次第に締め出されて、教皇首位権のもとに教階制(ヒエラルキア)へと統合されていった[1]。関口武彦は教皇改革を、次の三期に分けている[1]。その時期に就任した教皇と対立教皇も記す。

第一期:クレメンス2世からグレゴリウス7世まで(1046年-1085年

第二期:ウィクトル3世からゲラシウス2世まで(1086年-1119年

第三期:カリクストゥス2世からルキウス2世まで(1119年-1145年

教会改革時代の教皇一覧

クレメンス2世 (在位:1046-1047)

ベネディクトゥス9世 (1047-1048)

ダマスス2世 (1048-1048)

レオ9世 (1049-1054)

ウィクトル2世 (1055-1057)

ステファヌス9世 (1057-1058)

ニコラウス2世 (1058-1061)

対立教皇 ベネディクトゥス10世 (1058-1059)


アレクサンデル2世 (1061-1073)

対立教皇 ホノリウス2世 (1061-1064)


グレゴリウス7世 (1073-1085)

対立教皇 クレメンス3世 (1080、1084-1100)



ウィクトル3世 (1086-1087)

ウルバヌス2世 (1088-1099)

パスカリス2世 (1099-1118)


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