救難隊(きゅうなんたい 英:JASDF Air Rescue Squadron[1])は、1958年(昭和33年)3月より航空自衛隊に設けられ、捜索・救難機を用いた救難救助を専門とする部隊。活動エリアは陸上・海上(潜水含む)の区別なく行われ、要救助者の所属に関係なくADIZと呼ばれる防空識別圏までも含めて多機能に救難活動を行なう。救難隊の部隊名は、基地の所在する地名を付けて表され、所属する救助隊員は「メディック」の呼称で知られている。
概要千歳救難隊(UH-60J)
救難隊は上部組織の航空救難団司令部・飛行群本部より指揮監督を受けて、主に自衛隊や在日米軍で発生した航空機の墜落事故などでの機体・乗員の捜索救難・救助活動(航空救難)を主な使命とする。
海上保安庁、警察、消防が出動困難な場合や救助困難な海上での海難事故、航空機事故、山岳救助、急患空輸、大規模災害の災害派遣などへの対応でも数多く出動している。これらの救難隊には、衛生兵を意味する通称「メディック」と呼ばれる救難員が、ジェット救難捜索機(U-125A)や救難救助ヘリコプター(UH-60J)に搭乗しており、日本国内でも練度の高い航空救難組織の一つである[2]。このため救難活動における「最後の砦」とも呼ばれる[3]。
民間航空機の遭難に当たっての救難隊出動は、国土交通省航空局の東京空港事務所長(羽田空港)が一義的な災害派遣の要請権限者になっており、救難区域司令官への要請が有れば直ちに航空機事故に対応している。このように救難隊は軍事的な側面だけではなく、民間人の急患搬送や救難救助はもとより、気象実験、地震発生時の偵察、火山活動の観測[4] などと、航空自衛隊の民生協力や民生支援としては大きな役割を担っている。
なお、空自の救難救助ヘリコプターは空中給油用の受油プローブを取り付けた機体もあり洋上救助にも出動しているが[5]、要救助者の用件や状況[6]により海上自衛隊の救難飛行艇を装備した救難部隊が洋上の救難に当たる場合もある。 救難隊設立の経緯は航空自衛隊の創設に深く関係したアメリカ空軍のエアー・レスキュー・サービス(Air Rescue Service 1963年(昭和38年)?1969年(昭和44年)までの6年間だけ民生協力として、首都圏や伊豆諸島方面を中心とした救難救助や急患輸送を任務とする「特別救難隊」が陸・海・空の三自衛隊で編制され、航空自衛隊は入間基地の入間救難分遣隊(1964年に入間救難隊に改編)が参加した。入間救難隊は1968年(昭和43年)9月に救難任務を解かれ、同年10月に廃止された。特別救難隊廃止の背景には、1965年(昭和40年)の百里基地に百里救難隊の新編や東京消防庁へのヘリ導入よる東京消防庁航空隊創設があり、1967年(昭和42年)より東京消防庁航空隊は、特別救難隊任務の一翼を担う形で東京都市圏での活動を開始した。その後も海上自衛隊館山航空基地の第101航空隊による伊豆諸島・小笠原諸島方面の急患輸送は継続され、現在では救難飛行隊から航空分遣隊となった救難部隊が主に行なっている。陸上自衛隊では1973年(昭和48年)から航空自衛隊那覇基地に置かれた第101飛行隊があり、現在は第15ヘリコプター隊として南西諸島(琉球諸島)方面で同様の任務に就いている。
沿革
特別救難隊
部隊編制・運用詳細は「航空救難団」を参照
救難隊は航空救難団飛行群司令本部よりの指揮を受け、全国の航空自衛隊基地などに分屯して、救難捜索機や救難救助ヘリを保有する10個の救難隊が、初動地域を割り当たられて活動している。
各地の救難隊は航空総隊司令官が設ける中央救難調整所(RCC)により一括で統制されており、遭難現場などにいち早く展開できる体制になっており、各地の救難隊が遭難や救助の規模に応じて共同して出動する。
出動態勢は24時間待機になっており、救難隊は常に緊急発進に備えている。出動の待機状態は「救難待機」と呼ばれ、第1待機では15分以内(第2待機では2時間以内)に救難機に搭乗して出動する。
救難要請の発令は出動ベルの鳴動で行なわれ、隊員はわずかの時間でジェット救難捜索機(U-125A)や救難救助ヘリコプター(UH-60J)に搭乗して現場に出動する。
救難隊の基本編制は、ジェット救難捜索機(2機)と救難救助ヘリ(3機)からなる専従の飛行隊(Squadron)である。
ジェット救難捜索機には、パイロット2名、機上無線員(レーダー、赤外線暗視装置操作)と救難員の各1名で合計4名が搭乗する。
救難救助ヘリには、パイロット2名、機上整備員(フライトエンジニア)1名、救難員2名の合計5名が搭乗する。
捜索に当たっては、必ず速度の速い救難捜索機が救難救助ヘリコプターに先行して捜索活動を行なう。