この項目では、モスクワにある救世主ハリストス大聖堂(Храм Христа Спасителя)について説明しています。カリーニングラードにある同名の大聖堂については「救世主ハリストス大聖堂 (カリーニングラード)」をご覧ください。
モスクワ川の架橋から望む救世主ハリストス大聖堂
救世主ハリストス大聖堂[1][2](きゅうせいしゅハリストスだいせいどう、ロシア語: Храм Христа Спасителя フラーム・フリスター・スパスィーチェリャ)は、ロシアのモスクワにある正教会の大聖堂。ロシア正教会モスクワ総主教直轄の首座聖堂である。全世界にある正教会の大聖堂中、3番目に高い103メートルの偉容をもつ(ドームと十字架部分で35メートルの高さがある)[3]。
1883年6月7日(ユリウス暦:5月26日、主の昇天祭)に大聖堂は成聖された。しかし1931年に宗教弾圧政策をとるソ連によって爆破された。ソビエト連邦の崩壊後の2000年8月19日(主の顕栄祭)に再建[5]。 「ハリストス」とは「キリスト」の現代ギリシャ語・ロシア語に由来する転写。日本語訳されたロシア人の著作や日本ハリストス正教会の刊行物等では、「キリスト」ではなく現代ギリシャ語・ロシア語に近い表記である「ハリストス」を尊重して救世主ハリストス大聖堂と表記されている[1][2]。"Христа"(フリスター)は"Христос(ハリストス[6])が格変化したものである。
名称
歴史
建立アレクサンドル・ヴィトベルク
1812年12月25日ロシア皇帝アレクサンドル1世によって、ナポレオン戦争(1812年ロシア戦役)後、戦勝記念と戦没者慰霊を目的に大聖堂の建立が勅裁された[4]。実際に建設が開始されるまでは時間がかかり、1817年着工された[4]。アレクサンドル・ヴィトベルク(英語版)設計による当初案では、新古典主義を基調とし[7]、建築フォルムに意味を持たせた意欲的なものであった。大聖堂は、モスクワ・雀が丘で起工されたが[4]、ヴィトベルクが経理上の誤りの責任を問われてヴャトカに流刑とされた上[8]、敷地予定地の地質が軟弱であったため[4]、工事は一旦中止に追い込まれた。 1852年、クレムリンから望む建設中の救世主ハリストス大聖堂
その後、アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世の依頼を受けたコンスタンチン・トーンの再設計により、1839年に現在のモスクワ河畔、クレムリンの向かい側に敷地を移して建設工事が再開された。建設に先立ち予定地にあった教会、修道院は移転した上で1839年9月10日礎石が置かれた[4]。
デザインについて概して言えば、中世ロシアで建てられていたビザンティン建築の教会に範をとっているものの、通例みられるビザンティン建築の形状とはかなり異なっている。実際のモデルとしては、モスクワのクレムリンにある生神女就寝大聖堂と聖天使首大聖堂、モスクワのドンスコイ大聖堂、コローメンスコエの主の昇天聖堂などが挙げられる。外観についてはサンクト・ペテルブルクにある聖イサアク大聖堂へのオマージュもみられる[4]。
内装はワシーリー・スリコフ、イワン・クラムスコイ、ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンらロシア国内の芸術家を総動員[9]し、19世紀における技術革新によって可能となった巨大な内部空間に壁画や彫刻を配置した。特にフレスコ画は完成に12年を閲し、この荘厳な大聖堂は完成に44年もの歳月を要した。大聖堂は1883年6月7日(ユリウス暦:5月26日、主の昇天祭)、アレクサンドル3世の戴冠式と同日に成聖された[4]。
なお、成聖の前年(1882年8月20日)には、チャイコフスキーの「序曲1812年」が大聖堂で演奏されている[10]。
爆破20世紀初頭の救世主ハリストス大聖堂1931年12月5日、爆破される救世主ハリストス大聖堂
1917年救世主ハリストス大聖堂においてロシア正教会による地方公会が開かれた。この時、聖務会院制を廃止し総主教制が復活する決定がなされ、ティーホンがモスクワ総主教に選ばれ着座した[4]。総主教制の復活をはじめとする決定を行う地方公会がロシア革命勃発と同年に行われているが、これは帝政時代からの事前準備があって可能だったものであり、革命をきっかけとして行われたものではない。長年の準備の上で帝政が倒れた直後に開催されたロシア地方公会は、ロシア正教会が帝権とは無関係に存続し得ること、およびその存在が盤石のものであることを示すものでもあった[11]。
ロシア革命により、ロシア正教会は大打撃を受ける。無神論を標榜し、特に民衆の支持によってではなく武力革命で政権を奪取したボリシェヴィキにとり、帝政が倒れてもなお、信徒も参加した公会開催と総主教制復活にみられるように、信徒の支持により確固として存続するロシア正教会は脅威であった[12]。