敏いとうとハッピー&ブルーは日本のムード歌謡グループ。本稿では2021年結成の後継グループの新?(SHINSEI)敏いとうとハッピー&ブルーについても記述する。 「トシ伊藤とザ・プレイズメン」「敏いとう&ブルー・キャンドル」を経て、1971年に「敏いとうとハッピー&ブルー」を結成。初代リードボーカルはのちに長谷二郎に改名する鳴海たかし。 1973年、2代目リードボーカルに森本英世を迎え、1974年に『わたし祈ってます』がヒット。以降、『星降る街角』(1977年)、『よせばいいのに』(1979年)などの曲を世に送り、「ムード歌謡の帝王」の異名を持つようになる[誰によって?]。 1983年、リードボーカルの森本英世が脱退。 1996年、シングル『横浜ものがたり』で活動再開。麻生真宮子がボーカルとして加わり「ハッピー&ブルーwithマミー」として約2年間参加。 2006年から2009年まで、宍戸マサルがメインボーカルとなって活動。 2021年5月、宍戸マサルと、サブリーダー的存在の田丸栄作からの申し出を敏いとうが受け入れ「敏いとうとハッピー&ブルーwithマサル」を正式な継承グループとして認める[2][3]。 同年6月、グループ名を「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}新?(SHINSEI)敏いとうとハッピー&ブルー」に改名[4]。 同年11月、「新☆敏いとうとハッピー&ブルー」立ち上げ第一弾シングル『昭和パラダイス』を日本コロムビアより発売。11月9日に都内にて行われた新曲発表・記者会見には、後輩グループの「純烈」が全員でお祝いに駆け付けた[5][6]。 2024年4月、テイチク移籍第一弾シングル発売、「新☆ハッピー&ブルー」名義で活動。
来歴
メンバー
敏いとう(1940年1月3日 - 、熊本県出身) - 敏いとうとハッピー&ブルー リーダー青山学院大学経済学部在学中にアメリカンフットボール部を設立。日本大学農獣医学部獣医学科卒業。作曲家遠藤実の愛犬を診察したのがきっかけで芸能界に入る。1967年、「トシ伊藤とザ・プレイズメン」名義でミノルフォンレコードよりレコードデビューする。芸名の敏いとうとは、本名の伊藤敏(読みは、いとう・さとし)を逆さまにしたものである。大学卒業後の渡米時にフランク・シナトラのボディガード役を務める[7]などのエピソードを持つ。一時ヨーロッパで音楽の勉強を行い、帰国後グループを再結成した。2010年、第22回参議院議員通常選挙に国民新党から比例区で出馬し落選[8]。選挙直後に軽度の脳梗塞を発症し再発した際の入院で胆嚢炎を患い全摘手術を受ける[9]。2012年には脊柱管狭窄症、2013年には心筋梗塞を発症しているが、その後回復しいたって健康。現在も歌唱指導など後進の育成をしている[7]。
宍戸マサル -現在は新??SHINSEI)敏いとうとハッピー&ブルー リーダー&リードヴォーカル。1980年、俳優としてデビュー。代表作品はスーパー戦隊シリーズ『超力戦隊オーレンジャー』(1995年 - 1996年)でのオーレッド/星野吾郎役[10][11]。2006年にハッピー&ブルー加入、2009年までリードヴォーカルを務めた[10][11]。2021年5月、敏いとう公認の正式なハッピー&ブルーの継承グループとして「新?敏いとうとハッピー&ブルー」を田丸栄作と共にスタート[4][3]。2020年からは芸能事務所・ジャパンドリームミュージック代表を務める。
田丸栄作 - 現在は新?(SHINSEI)敏いとうとハッピー&ブルー統括担当
新?(SHINSEI)敏いとうとハッピー&ブルー
宍戸マサル - リーダー&リードヴォーカル
田丸栄作 - ヴォーカル
和田圭市 - コーラス
信達谷圭 - コーラス
土屋圭輔 - コーラス
佐藤文則 - 補欠コーラス
新?ハッピー&ブルー