政治改革四法
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政治改革四法(せいじかいかくよんほう)は、1994年日本で成立した小選挙区比例代表並立制政党交付金の導入を柱とする政治改革のための法律群である、公職選挙法の一部を改正する法律、衆議院議員選挙区画定審議会設置法、政治資金規正法の一部を改正する法律、政党助成法の総称。
背景

1980年代末、農産物輸入開放品目の拡大によって一票の格差で優位である地方農業関連票を減らした上に、消費税導入やリクルート事件において更に不評を買っていた与党自由民主党第15回参院選で大敗を喫した。これを受け、「企業献金は見返りを求めない、賄賂性のない献金」という建前に立ち返るため、「他の西側民主主義国なみへの政治資金規制強化」が広く主張されるようになった。自民党内ではそれに加えて衆議院中選挙区制を腐敗の元凶とする主張が台頭した。
政治改革に関する議論
選挙制度改革

当時の自民党内の選挙制度改革推進派の主張によると、大政党にとって中選挙区制は政策上の差異のない同一政党内の議員同士が最大のライバルとなる制度であるため、議員(特に与党議員)は地元への利益誘導により選挙の勝利を図ろうとする。また一部の地元利益団体と繋がることによって多数派有権者の支持を得ずとも当選が可能となるシステムである。小選挙区制を導入すれば同じ政党候補同士の争いは起きず、また投票者の半数近くの票を得なければ当選できないので、特定利権より広範な市民の利益が優先されるようになる。更に、政権交代が容易になるため野党の利益にもかなった制度であると主張された。自民党もかつて、鳩山一郎政権や田中角栄政権において小選挙区制導入を模索したことがあり、党にとって全く目新しい提案というわけではなかった。

ただし、大政党有利とされる小選挙区制については、衆議院で議席を大きく減らす可能性もある公明党日本共産党民社党社会民主連合は激しく抵抗し、共産党以外の野党と共闘関係にあった日本社会党もそれに同調すると考えられた。また、当選者より落選者の方が少なくなることの多い中選挙区制から、選挙区から一人しか当選できない小選挙区制への移行には、長年中選挙区制で当選を重ねてきた自民党議員からの抵抗も予想された。そうした懸念を勘案し、復活当選による救済の可能性と少数政党の一定の議席が見込める小選挙区比例代表並立制が自民党案の軸となる。

一方、社公民3党は、小選挙区制や並立制は自民党の一人勝ちをもたらすための党利党略であるとし、獲得票数と議席数の比例性が高い小選挙区比例代表併用制を対案として提案した。また共産党は中選挙区制のまま、一票の格差解消のための抜本的な定数是正を行うことを主張した。
政治資金規制改革

企業・団体からの政治献金への規制強化が主題であるが、規制を強化すると自民党・社会党・民社党の政治資金が枯渇する懸念があるため、政党助成金制度をセットで導入する案が自民党から主張された。これに対しては個人献金と事業収入が政治資金源の大部分を占める共産党が強く反対した。
成立までの経緯
竹下内閣

1988年6月18日、朝日新聞が川崎市助役へコスモス株が譲渡されたことをスクープ。この報道に端を発するリクルート事件竹下内閣を直撃し、自民党の若手議員の中から「政治にはカネがかかるという現実を根底から変革しなければならない」という動きが出始める。同年9月2日、武村正義鳩山由紀夫らを中心とする若手一年生議員によって政策勉強会「ユートピア政治研究会」が結成される[1][2]

同年11月20日、竹下登首相は札幌市で記者会見し、「政治資金の入りと出の問題、その基本となる選挙制度の問題から政治改革に取り組む」決意を表明[3]

同年12月16日、ユートピア政治研究会は「政治改革への提言」を発表。この提言には「政治資金の透明度を高めること」「政治活動費の国や党による負担」「比例代表制を加味した小選挙区制の導入の研究」などの内容が含まれていた[4]

同年12月27日、竹下改造内閣が発足。これにあわせて、後藤田正晴を委員長とする政治改革委員会が自民党総裁直属の機関として設置された。後藤田は1988年3月に出版した著書『政治とは何か』ですでに1票制の小選挙区比例代表制が好ましいと主張しており、後藤田が自民党における検討の責任者となったことが、政治改革論議が選挙制度改革へ収斂する道筋をつけることとなった[5]
海部内閣

政治改革4法案の原型は第2次海部改造内閣1991年に提出した政治改革3法案(衆議院議員選挙区画定審議会設置法案がない)にある。後藤田正晴を中心に取りまとめられたとされる原案は小選挙区比例代表並立制で2票制とのちに成立する案とほぼ変わらなかった(この時後藤田のもとで実務を担った武村正義がのちに細川政権成立に際して、これに近い並立制案を復活、成立させることになる)。当時の首相である海部俊樹臨時国会所信表明演説にて「政治改革の実現」を強調し強力に推進した。

だが、同3法案は閣議決定されたにもかかわらず、当時竹下派に依存し党内の政治基盤が脆弱であった海部内閣に対する格好の攻撃対象となった。同法案では既に選挙区を確定していたため、与野党問わず区割りに不満な議員はゲリマンダーならぬカイマンダーであると反発し、ハトマンダーカクマンダーの再来かと騒がれた。政治改革特別委員会では野党はもとよりYKKなど党内からも激しく反対され、1991年9月30日、小此木彦三郎委員長は廃案を宣言することになった。これを受け、海部首相が「重大な決意」と解散総選挙を匂わせたが、小沢一郎からも反発を受け、退陣へ追い込まれる(海部おろし)。
宮澤内閣

1992年東京佐川急便事件金丸信が失脚し、自民党支持が急落する一方、金丸失脚に伴う旧竹下派の後継争いから羽田孜・小沢率いる改革フォーラム21が竹下派から割って出る事態となった。反主流派となった羽田・小沢派が宮澤改造内閣で冷遇されるに至ると、政治改革を旗印に同内閣と小渕派を「守旧派」として激しく攻撃するようになった。そこで選挙改革が焦点となった。

世論が政治改革へ高まりを見せる中、宮澤首相はインタビュー番組「総理と語る」に出演、田原総一朗から「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と言質を取られ、結果的にこれが命取りとなった。

海部内閣の政治改革3法案の失敗の一因が区割りへの反発であったため、まず区割り以外の法案を成立させ、その後に改めて具体的な区割り法案を審議する戦略がとられた。なお、ここでは純粋な小選挙区制による法案が党議決定され、国会に提出されたが、これはそもそも選挙制度改革自体に否定的な党内の改革慎重派が主導したものであった。当時はねじれ国会であったため、参議院で法案を可決するには野党の賛成が必要だったが、野党には小選挙区に消極的な勢力も多く、単純小選挙区なら成立は不可能だと考えたためである。

以後、自民党内では改革推進派が野党との妥協を選択肢の一つとして検討する一方、元来、選挙制度改革自体に慎重な勢力(=選挙制度改革に反対)が単純小選挙区に固執するという奇妙な状況に陥っていった[6]。首相の宮澤喜一は元来それほど政治改革に積極的ではなかったが党内基盤が弱く、引き続き野党の賛成を得て改革を推進するため、小選挙区比例代表並立制を軸にして成案を得ることを考えた。しかし、自民党内では、双方の主張が対立、激化し、意見がまとまらず、結局、宮澤政権は政治改革法案の成立を断念し、臨時国会に先送りすることを決定した。これに対し、社会党を中心に野党から宮澤内閣不信任案が提出されると自民党内の政治改革積極派の羽田・小沢派は自民党に反旗を翻して野党の動きに同調して宮澤内閣の不信任案に賛成し、その結果、賛成多数で不信任案が可決された。この内閣不信任案可決を受けて、宮澤内閣は衆議院解散を実行した(嘘つき解散)。
細川内閣

第40回衆議院議員総選挙の結果により、1993年8月、日本新党細川護熙を首班とする連立政権が誕生した。


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