政府紙幣
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政府紙幣(せいふしへい)とは、「通貨発行権」を持つ政府が直接発行する紙幣、または、持たない場合において中央銀行が発行する銀行券と同じ法定通貨としての価値や通用力が与えられた紙幣のことである。国家紙幣ともいう。近年、不況対策としての通貨発行益をめぐって、さまざまな議論を呼んでいる。
概説

多くの国では、政府管轄の印刷局(日本は国立印刷局)や印刷会社で製造した紙幣をいったん中央銀行に交付して、中央銀行が銀行券として流通させることが一般的であるが、現在でも一部の国では、政府機関が直接紙幣を発行している場合がある[1]。たとえばシンガポールの通貨シンガポールドルシンガポール金融管理局が発行と管理を行っているが、これは中央銀行の業務を政府自ら行っているといえる。

中華人民共和国香港特別行政区の法定通貨である香港ドルは、香港金融管理局の監督の下で民営銀行3行が紙幣を発行しているが、10香港ドル紙幣[注 1]ポリマー紙幣)だけは香港特別行政区政府の発行する政府紙幣である。このように銀行券と政府紙幣の双方が発行される場合もある。

現在のところ政府紙幣を発行している国は少数にとどまっているものの、中央銀行の発行する銀行券と同様に発行と流通に際して厳しく管理されている。
世界の政府紙幣の歴史「貨幣史」も参照

世界で最初の紙幣は中国の四川で発行された交子であり、当初は鉄貨の引換券として流通していた。やがての政府が交子の発行を官業として国家が発行するようになり、これが政府紙幣の始まりである。その後のでは交鈔が発行され、補助貨幣の面もあった交子とは異なり当初から通貨として流通した。しかし財政難により濫発したことから、激しいインフレーションを招いた。元ののちのでも宝鈔が活発に発行されたが、インフレーションはまぬがれなかった。
アメリカ合衆国1/3ドル大陸紙幣(1776年2月17日)

アメリカではアメリカ独立戦争中の独立政府において、膨大な戦費をまかなう為に大陸紙幣 (Continental) と呼ばれる一種の政府紙幣を発行した。これはアメリカ合衆国建国後、地域紙幣として一時使用されつづけたが、不換紙幣であり濫発されたことから価値が暴落し信用のない通貨の代名詞になった[注 2]米英戦争 (1812年 - 1814年) 後の数年間と1830年にも国内鉄道基盤整備のための投資として不換紙幣が用いられたが、1837年恐慌 (Panic of 1837) で発行停止に追い込まれた。

また南北戦争時には戦費調達の必要性から1862年にリンカーン大統領によって、法貨条例 (Legal Tender Act of 1862)を制定。これに基づき、総額4.5億ドルのデマンド・ノート (Demand Note) を発行している。これはアメリカ合衆国財務省が初めて発行した紙幣であった。戦中に国立銀行法(National Bank Act)が制定されたこともあり、反対派(産業資本)と賛成派(農業)の利害抗争を反映して、このデマンド・ノートは回収されたり再発行されたりした。南北戦争後の1865年に至ってリンカーンはこれを合衆国の永続的な通貨発行システムとする意向を発表した。しかし暗殺されて発行は停止した。南部連合国も政府紙幣を発行したが、敗北したことで無価値となった。北部のデマンド・ノートは大不況初期の1878年に回収を禁じられた。翌年から法に基づいて正貨に兌換できるようになった。未払い額3億4668万1016ドルが当分流通し続け、1907年恐慌で1・2・5ドル券の発行額分高額券の回収が決まった。

1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領は、ニューディール政策の一環として政府紙幣の発行を決め、政策を成功に導いたと評価されている[2]J.F.ケネディ政権下で発行された政府紙幣 $5札(1963年)

その後、1963年6月4日にケネディ大統領の大統領令11110号 (Executive Order 11110) によって政府紙幣が復活する[注 3]が、その約半年後の11月22日にケネディ大統領は暗殺された。1971年1月以降は、政府紙幣の新規発行は行われていない[3]。ただし、現在でも法律上において財務長官は、3億ドルを限度に合衆国紙幣(英語版)を発行できるとされている(合衆国法典第31編第5115条[4])。
フランス共和国額面25ソルのアッシニア紙幣(1792年)

フランスではフランス革命後に成立した革命政府は、没収した教会財産を担保とするアッシニアを発行した。当初これは利子付債権であったが、1790年から事実上不換紙幣として流通した。十字軍時代から築かれた教会財産は兌換から守られた。フランスは19世紀にオスマン帝国の債権国となったが、第一次世界大戦中にオスマン債務管理局が政府紙幣を発行したときはイギリスをともなって抗議した。ヴェルサイユ条約サン=ジェルマン条約の双方によって、保証に使われた正金は連合国に接収された。
軍用手票

戦時には国家の組織である軍隊が軍用手票(軍票)を発行する。1907年締結のハーグ陸戦条約第52条に「現品を供給させる場合には、住民に対して即金を支払わなければならない、それが出来ない場合には領収書を発行して速やかに支払いを履行すること」とされており、最終的には戦後処理で清算する必要がある[5]

その一方で、事実上の通貨として流通する場合もある。代表的なものは、日本軍が第二次世界大戦東南アジアで使用した大東亜戦争軍票[6]、戦後も世界各国で展開するアメリカ軍の兵士が使用したMPC、アメリカ軍に占領された沖縄で一時的に使用されたB円などである。軍票も政府紙幣の一種といえ、濫発するとインフレーションを招くこともあるが、厳格に運用すると銀行券と同様に支障なく流通させることができる。実際にB円は沖縄における法定通貨として1958年まで使用されていた[注 4]
日本における政府紙幣
日本銀行創立以前の政府紙幣

江戸時代には、地方の諸侯が領内での流通に限定した藩札を発行していたが、これも一種の地方政権の発行する政府紙幣であった。発行目的のひとつに領内の殖産興業があったが、藩によっては濫発した為、額面よりも実際の価値が幕府発行の貨幣に対して著しく低い場合も少なくなかった。

明治維新後の明治政府は、何度も政府紙幣を発行した。最初は戊辰戦争時の太政官札であり、西南戦争時には明治通宝が発行されたが、いずれも戦時支出のために大量に発行された。ついで発行された国立銀行紙幣もうまく機能しなかったことから、1883年に旧紙幣と交換された神功皇后が描かれた改造紙幣が発行されたが、この紙幣の名義は「大日本帝国政府紙幣」であった。その後日本銀行が設立されたことで、各種の政府紙幣は流通が停止し使用禁止となった。

明治の維新政府は、税制など歳入システムが未整備のままスタートした。政府支出の大部分は、太政官札などの政府紙幣の発行によって賄われていた。当初は、デフレギャップが存在していたので、物価も上昇せず、経済も順調に拡大した。しかし1877年(明治10年)の西南戦争の戦費がかさんだ。このための政府紙幣が大量に発行されたことが原因でインフレが起った。流通通貨の増大でインフレギャップが生じたのである。農産物が高騰し、農村は潤ったが、都会生活者、特に恩給暮しの者達は困窮した。そこで政府は、増税などによって政府紙幣の回収を始めた。この結果、物価動向も落ち着いた。しかし新たに登場した松方内閣松方首相大蔵大臣兼任)はさらに多くの政府紙幣の回収を行った。この結果、大幅に需要が減り、デフレーションになった(松方デフレ)。
小額政府紙幣1945年昭和20年)の靖国神社50銭政府紙幣「小額政府紙幣」も参照

第一次世界大戦中には、戦争により価格が急騰したため、銀貨の発行継続が困難になり50銭、20銭、10銭の政府紙幣が発行された。


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