放生津曳山祭
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放生津曳山祭(ほうじょうづひきやままつり)は、富山県射水市新湊地区市街地(旧新湊市)で毎年10月1日から10月2日まで行われる、放生津八幡宮の秋季例大祭である。通称は新湊曳山まつり(しんみなとひきやままつり)と呼ばれる。10月1日は神輿渡御・13基の曳山供奉が、10月2日の本祭には放生津八幡宮にて全国でも珍しい築山(つきやま)行事が行われており、国の重要無形民俗文化財に指定されている[1][2]
概要

大小2基の神輿渡御に供奉し、富山県内で最も多い全13基の曳山が並び、港町である新湊の市街地を各町揃いの法被姿の若衆によって、「ア、イヤサー! イヤサー!」(万歳を意味する「弥栄(いやさか)」に由来。射水市を含む高岡地域各地の曳山祭、獅子舞でも使われる)と威勢のいい掛け声のもと勇壮に、朝9時より日中は花笠を掛けた花山として、夜には提灯山となって夜空をほのかに染めながら、また市街を流れる内川のを渡る際には水面に提灯の灯りを美しく映しながら、23時過ぎまで13基揃って曳き回し、その後曳き分かれ町内曳きを深夜まで行う。

巡行路は朝9時から夜遅くまで曳かれるため、それぞれの町に花山(日中)と提灯山(夜)が均等に通るように、「内川南回り・内川北回り」の2ルートがあり、ほぼ同じルートを毎年交互に曳き回すようになっている。

古新町(ふるしんまち)が曳山を1650年慶安3年)に創設したのが始まりとされ、その後、奈呉町(なごまち)、中町と順次、他の町が競って曳山を製作していった。享保年間には半数強が揃い、1862年文久2年)に南立町(みなみたてまち)が曳山を創建し13基が揃った。また、1676年延宝4年)の祭礼には、曼荼羅寺が曳山を出したと記録に残っているほか、昭和に入り写真も残る幻の14番目の曳山があった。これは1950年(昭和25年)に、四日曽根(よっかそね)町が曳山を作り、王様(御神体)として加藤清正の像を乗せこの年のみ曳き回したものである[3]

2016年平成28年)9月に、八幡宮の蔵で発見された1922年大正11年)の「行列録」には、神輿の露払いとして現在出ていない、約40もの町から獅子(獅子舞)が参加し、大旗台、子供母衣武者隊、神馬、大勢の役員や神職が行列に参加するなど、約1,000人以上が祭礼に参加していたことが記されている[4]。四日曽根では2020年令和2年)4月、母衣武者の衣装や道具が同町公民館で見つかり、放生津八幡宮に奉納した[3]

2020年(令和2年)の祭礼は、新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、関係諸団体は1日の曳山巡行を中止し、神輿渡幸祭と、2日の築山行事と放生会を行った。なお神輿渡幸祭には、100年ぶりに祝いの口上を述べる「狂言師」と、鈴を鳴らして巡行路を清める「女神アメノウズメ」が加わった。なお、狂言の監修は、映画「人生の約束」を監督した石橋冠が務めた[5][6]

13基の曳山は1968年(昭和43年)9月30日に「放生津八幡宮の曳山」として新湊市(現 射水市)指定有形民俗文化財に、築山行事は1982年(昭和57年)1月18日に「放生津八幡宮の築山」として富山県指定無形民俗文化財に指定された。その後2014年(平成26年)10月1日には、曳山行事が「放生津八幡宮祭の曳山行事」として富山県指定無形民俗文化財に指定された。これは、祭礼期間中に曳山行事と築山行事が伝承され現在も行われており、全国的に稀有な祭礼形式であること、また、曳山行事としては高岡御車山祭に次いで県内では発祥が古く、360年以上続く曳山行事であることが評価されたものである[7][8]。また2006年(平成18年)には、「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定されている。

2021年(令和3年)1月15日には「放生津八幡宮祭の曳山・築山行事」として、国の文化審議会より重要無形民俗文化財に答申され[9][10]、同年3月11日に指定された[1][2]。同年9月には、放生津八幡宮境内に記念の石碑が建てられた[11]。また国の文化審議会は、2024年(令和6年)にユネスコ無形文化遺産の「山・鉾・屋台行事」への追加申請を決定した[12][13]
神輿

神輿は現在大小の2基あり、氏子町を南北に分け2基で1日の朝から夕方にかけ、「神輿渡幸祭」として渡御する。大神輿は1937年(昭和12年)より、小神輿は1967年(昭和42年)より巡行している。なお両神輿の木製の2輪の車輪は黒漆塗りで、2020年令和2年)に解体修理されたものであり、各車輪の直径は、大神輿が138cm、小神輿が106cmである[14]。なお、これらより古い1750年寛延3年)に制作された旧神輿1基は、射水市新湊博物館に展示されている[15]
鬮除山(くじのけやま)と鬮取り式

鬮取り式は、毎年曳山の巡行順をクジ引きで決めるものであるが、古新町は曳山元祖の町という事で毎年必ず一番山を務めていた。しかし1721年享保6年)に他町より異論が出たため、13町で鬮取りを行ったところ古新町が1番を当てたことから、それ以降も毎年必ず一番山を務め、クジ引きを免除される鬮除山(くじのけやま)といわれる。

現在も8月初めの大安の日に、鬮取り式(鬮取り番付御祭)を放生津八幡宮で執り行っている。古新町を除く12町は、町を東西に流れる内川をはさんで6町ずつあり、前山6町、後山6町に分け交互に交代し、クジ引きで二番?七番山(前山)、八番?十三番山(後山)を決めるほか、祭礼当日の安全を祈願する。
曳山

13基の曳山は高さ約8m、長さ約6-7m(長手間)、重さ約3.5tで、高岡御車山と同じように地車に鉾柱(心柱)を立て花傘を付けた花鉾山車である。上山と下山の二層構造で上山中央の鉾柱(心柱)の上部にはひげこといわれる竹籠を付け、その周りに赤・白・黄3色の和紙(またはナイロン)で出来た菊の花を5個付けた割竹を放射状に広げた花傘の鉾山で、鉾柱(心柱)の先端には標識(だし)といわれる鉾留が付いており、王様といわれる御神体を供えている。また前人形といわれるからくり人形が供えられている山もある。下山には幔幕(まんまく)が張られている山と戸帳の山がある。車輪は4輪の大八車(外車)様式で、輻車(やぐるま[スポーク式])または板車である。昼の花山に対して、夜には約200から300もの提灯を付けた提灯山となり、狭い街角を急曲がりする時の勇壮さと提灯の揺れる風情が見ものとなっている。

立町(たてまち)にある「川の駅新湊」1階の曳山展示室には、2基の曳山が常設展示されており、1基はこちらを山倉とする紺屋町(こんやまち)、もう1基は毎年入れ替えされている。また2階曳山ギャラリーには、曳山の歴史紹介やミニチュアの曳山模型が展示されている。
古新町(ふるしんまち)

創設:
1650年慶安3年)

再出来:1697年元禄10年)、再々出来:1792年寛政4年)

標識(だし):鈷鈴(これい)

王様:諸葛孔明

前人形(からくり人形):唐子の太鼓叩き
※13基の中で一番歴史が古い山で、毎年必ず一番山を務める。※標識の鈷鈴は古新町の「古」を表している。
奈呉町(なごまち)

創建:
1692年(元禄5年)

再出来:1775年安永4年)

標識(だし):錫杖(しゃくじょう)

王様:恵比寿

前人形(からくり人形):唐子遊び

高さ:8.64m 長手間:6.0m 車輪直径:1.66m
※花傘は3色でなく唯一赤1色である。


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