攻城塔(こうじょうとう、ブリーチング・タワー、英: breaching tower、中世にはbelfry、ベルフリーとも呼ばれた[1])は、古代から中世にかけて用いられた攻城兵器。攻撃目標への防壁に接近する際の反撃に対して、攻城側の兵力やはしごを防御するように設計されている。攻城櫓(こうじょうやぐら)とも呼ばれる。
木造の移動式やぐらで、城壁に板を渡して兵士を城内に乗り込ませ、また最上階に配置した射手により城壁上の敵を制圧するのが目的である。古代から地中海世界・西アジア・中央アジア・中国の諸文明、中世ヨーロッパや戦国時代の日本など、極めて広範囲に普及した。この塔はしばしば長方体に4個の車輪を付けた形をとり、高さはおよそ防壁のそれと等しいか、または塔の頂上にいる弓兵が要塞の中に射撃できるよう、防壁よりも高められていることがあった。塔が木製で可燃性があったことから、これらには鉄や往々にして直前に剥いだ荷役獣などの生皮といった不燃性の被覆が施されていた[1]。攻城塔は主に木から作られたが、時折は金属製の部品も使われた[2][3][4]。
古代の近東では紀元前11世紀から使用され、ヨーロッパでは紀元前4世紀に、また古代の極東でも攻城塔は使用された。こうした攻城塔は動かしにくい大きさであることから、トレビュシェットのように、多くの場合は包囲したその場所で組み立てられた。建造には相当な時間を要し、もしも梯子による攻撃や坑道戦、または防壁や門の破壊などによって要塞の抵抗と防御を打破できないとなれば、攻城塔が主力として作られた。
多くの場合、攻城塔は槍兵、剣兵、また防御側へクォレル(クロスボウに用いる矢)を放つ弩兵を収容した。その大きさから、しばしば攻城塔は大きな石を撃ち出すカタパルトの優先目標となったが、塔の方にも報復のための投射物が装備されていた[1]。
攻城塔は、兵員が敵の防壁を乗り越えるために使用された。攻城塔が防壁へ近づいたとき、この塔は渡し板を防壁と塔との間に降ろした。兵員は防壁の上から城や市街へと侵入した。
古代における使用市街を攻撃するアッシリア人、彼らは弓兵と車輪付きの衝角をもちいた。ニムルードの北西宮殿にあるアッシリア人のレリーフ(ルームB、パネル18) 。紀元前865年 - 860年。マサダに残存する、ローマ人が築いた攻城用の傾斜道。
知られている中で最古の攻城塔の投入は、アッシュールナツィルパル2世(在位:紀元前883年 - 859年)率いる新アッシリア帝国の陸軍が、紀元前9世紀に用いた例である。彼の治世、またその後の治世のレリーフでは、傾斜道や衝角のようないくつかの包囲戦術の使用とともに攻城塔が描かれている。
幾世紀か後、アッシリアで運用されたこれらの戦術や攻城塔は、地中海を伝わって広まっていった。紀元前305年のロドス包囲戦におけるヘレポリス(英語版)(「街々の陥落者」の意)のような、古代で最大の攻城塔は、全高が135フィート、全幅は67.5フィートに達した。このように巨大な兵器を効果的に動かすにはラック・アンド・ピニオンが必要だった。この塔は200名の歩兵が人力で動かし、内部が9層に分割されていた。異なった階層には様々な型のカタパルトやバリスタが収容された。数世紀にわたり、後の攻城塔もしばしば同様の兵器を搭載した。
しかしこの大きな塔は、防衛軍が防壁前面の土地を氾濫させ、壕を掘ることで泥に埋まり込み、使い物にならなくなる事態が起きた。ロドス包囲戦では重要な点、つまり大型の攻城塔は平坦な土地を要することが明らかになった。多くの城、丘の上の市街、砦は、単に地形上の理由から、攻城塔の攻撃を実質的に無効化した。もっと小型の攻城塔が、包囲戦用のマウンド、つまり防壁を越えるために土や粗石、材木で築かれたマウンドの上で用いられた可能性がある。残存物にはマサダにおける包囲戦用の傾斜道のような例があり、ほぼ2000年間を生き残ってまだ今日にも見ることができる。
その一方で、ほぼ全ての最大級の都市は大きな河川や海岸に面し、こうした都市は外周の防壁の一部が攻城塔に弱くなった。さらにまた、こうした目標に用いられる塔は別の場所でプレハブ方式を用いて作られ、分解された上で目標の都市まで水路により運ばれる可能性があった。いくつかの希な場合では、市街の海岸の防壁を襲うため、こうした塔が船上に築かれた。第三次ミトリダテス戦争中に起きたキュジコス包囲戦では、攻城塔が普通の攻城兵器よりも多く用いられた[5]。