改暦
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改暦(かいれき)とは、まず従来用いていた暦法を改良や統一を目的に改めること、あるいは日本において宣明暦に対し吉凶誤差などの問題の解決を目的に行われた「宣明暦の改暦」のことである。
用いる暦法を改めることは、古い時代での多くが暦学の進展による改良のためであった。しかし近年は、より大勢が用いる暦法と共通化するという、便宜を目的としたものがもっぱらである。例えば、1873年の日本における太陰太陽暦天保暦から太陽暦グレゴリオ暦への「明治改暦」がそれにあたる。また現在、世界で広く使われるグレゴリオ暦であるが、19世紀末から20世紀初頭を中心に改良案が提案され、21世紀の現在も検討している個人や団体などがいる。

宣明暦の改暦については、日本の歴史上最も長かった宣明暦の時代に、吉凶や日数・誤差調整などを理由として月の大小や閏月を人為的に操作したことがあり、その操作のことである。

本項では、暦法の改暦(グレゴリオ暦の改良案も含む)と宣明暦の改暦の両方について、併記して解説する。
暦法の「改暦」
概要

暦の「月」が月の朔望に由来するように、太陰暦はある意味で自然なものと言える。しかし一方で、季節は太陽暦に沿ってめぐってくる。両者の折衷と言える太陰太陽暦であるが、天文と物理により正確な太陽年朔望月の観測と予測ができるようになったのはきわめて近年であり、メトン周期サロス周期など、経験則による他なく、正確な太陽年と朔望月と1日の間に相関性がない(平均太陽年 = 365.24219日・平均朔望月 = 29.530589日)ために正確な暦を作成するためには複雑な計算が必要であり、それをもってしても実際の天体の動きとの不一致は避けられなかったために、それを修正するためにより正確な暦法への変更を目指した改暦が行われた。
ヨーロッパ

ヨーロッパにおいては、紀元前45年ローマ暦から改暦されたユリウス暦太陽暦であるため月の朔望を反映させないことで安定した暦となったために、以後、採用が広がった。その後、さらに改良されたグレゴリオ暦が提案された(ただし、グレゴリオ暦への改暦は、ヨーロッパ内でもかなりまちまちであり、注意を要する)。16世紀以降のヨーロッパ勢力の世界進出に伴い、太陽暦は世界的に用いられるようになった。
中国

中国では、観象授時思想により、皇帝が「時を支配する」存在として位置づけられ、暦法は「国家の大典」と位置づけられていた。従って中国における暦法の改暦は、単なる暦法の改訂のみならず、太陽・月・惑星の現象を数理的に取り扱ってその天文定数及び計算表を算定して改変するまでが改暦であった。このため、日食月食予想の正確性や惑星の動きまでが暦に織り込まれることになった。そのため、王朝交代の度に改暦が行われ、後には新皇帝の即位を機に新政治の開始を内外に宣伝する一環として改暦が行われる場合もあった。また、改暦の成功は宮廷の暦学者にとっては大きな功績としてその後の立身出世にも関わるために、機会に乗じて皇帝に改暦を促したのも改暦の要因の1つと言われている。
日本

日本の暦は、最初は中国からの移入で対応していた。最初の暦である元嘉暦の導入時期は不明であるが、文武天皇元年(697年)に儀鳳暦(唐の麟徳暦)への最初の改暦が行われた。続いて天平宝字8年(764年)には大衍暦が導入された。貞観4年(862年)に宣明暦に改暦されて以後、遣唐使の廃止による日中の公的交流の断絶、暦道家学化・保守化によって以後改暦は行われなくなった。

なお、大衍暦の末期には同じ中国の暦である五紀暦が併用され、平安時代中期には非公式に符天暦が参考にされたことがあるものの、宣明暦採用から823年間にわたって同一の暦が使用され続けた。宣明暦も800年以上にわたって続けられたために実際の天体の動きよりも2日間も差が生じたために改暦論が起こった。

当初は授時暦の移入が検討されたが、渋川春海が地理的問題などから授時暦の中国暦の直接的移入は不可であると唱えて、これに独自の修正を加えた日本最初の国産の和暦貞享暦を作成した。貞享元年(1684年)に勅許を得た貞享暦は、翌貞享2年(1685年)に施行された。

その後、宝暦5年(1755年)に宝暦暦寛政10年(1798年)に寛政暦天保15年(1844年)に天保暦に改暦が行われた。これらは全て太陰太陽暦である。

そして、明治維新を機に改暦論が出された。天保暦の精度そのものは既にヨーロッパのグレゴリオ暦の水準に匹敵するどころかむしろ上回っていたが、明治政府は明治5年11月9日1872年12月9日)に突如明治天皇詔書太政官布告337号を発し、明治5年12月3日をもって新暦(グレゴリオ暦)の明治6年1月1日とすることを宣言した。

これは、明治政府の当時の財政状況や、幕末洋学者による太陽暦改暦論の存在、欧米諸国との関係の拡大という現実を考えた場合には適切な判断であったが、その一方で1000年以上の長期にわたり月の満ち欠けに従って毎月の生活リズムを形成してきた多くの一般の日本人の前に月の満ち欠けとは全く無関係な新たな暦が出現する事となり、人々に動揺を与えた。また、かつて『天経或問』で太陽暦のことを知った貞享暦の改暦者・渋川が月の満ち欠けを無視した太陽暦の暦法を「怪異の甚し、蓋し蛮人之異毒か」と糾弾しており、150年前とはいえ専門家ですら受け入れられなかった暦法を突然押し付けられた一般民衆からすれば、無理の無い話であった。そのため、改暦直後は新暦と旧暦が併用されるなどの混乱が生じた。

ともあれ、この明治6年(1873年)1月1日以後、欧米と同じグレゴリオ暦が採用されて、今日まで日本の暦法として用いられている。
グレゴリオ暦からの改暦論


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