改暦(かいれき)とは、まず従来用いていた暦法を改良や統一を目的に改めること、あるいは日本において宣明暦に対し吉凶や誤差などの問題の解決を目的に行われた「宣明暦の改暦」のことである。
用いる暦法を改めることは、古い時代での多くが暦学の進展による改良のためであった。しかし近年は、より大勢が用いる暦法と共通化するという、便宜
本項では、暦法の改暦(グレゴリオ暦の改良案も含む)と宣明暦の改暦の両方について、併記して解説する。 暦の「月」が月の朔望に由来するように、太陰暦はある意味で自然なものと言える。しかし一方で、季節は太陽暦に沿ってめぐってくる。両者の折衷と言える太陰太陽暦であるが、天文と物理により正確な太陽年と朔望月の観測と予測ができるようになったのはきわめて近年であり、メトン周期やサロス周期など、経験則による他なく、正確な太陽年と朔望月と1日の間に相関性がない(平均太陽年 = 365.24219日・平均朔望月 = 29.530589日)ために正確な暦を作成するためには複雑な計算が必要であり、それをもってしても実際の天体の動きとの不一致は避けられなかったために、それを修正するためにより正確な暦法への変更を目指した改暦が行われた。 ヨーロッパにおいては、紀元前45年にローマ暦から改暦されたユリウス暦は太陽暦であるため月の朔望を反映させないことで安定した暦となったために、以後、採用が広がった。その後、さらに改良されたグレゴリオ暦が提案された(ただし、グレゴリオ暦への改暦は、ヨーロッパ内でもかなりまちまちであり、注意を要する)。16世紀以降のヨーロッパ勢力の世界進出に伴い、太陽暦は世界的に用いられるようになった。 中国では、観象授時思想により、皇帝が「時を支配する」存在として位置づけられ、暦法は「国家の大典」と位置づけられていた。従って中国における暦法の改暦は、単なる暦法の改訂のみならず、太陽・月・惑星の現象を数理的に取り扱ってその天文定数及び計算表を算定して改変するまでが改暦であった。このため、日食・月食予想の正確性や惑星の動きまでが暦に織り込まれることになった。そのため、王朝交代の度に改暦が行われ、後には新皇帝の即位を機に新政治の開始を内外に宣伝する一環として改暦が行われる場合もあった。また、改暦の成功は宮廷の暦学者にとっては大きな功績としてその後の立身出世にも関わるために、機会に乗じて皇帝に改暦を促したのも改暦の要因の1つと言われている。 日本の暦は、最初は中国からの移入で対応していた。最初の暦である元嘉暦の導入時期は不明であるが、文武天皇元年(697年)に儀鳳暦(唐の麟徳暦)への最初の改暦が行われた。続いて天平宝字8年(764年)には大衍暦が導入された。貞観4年(862年)に宣明暦に改暦されて以後、遣唐使の廃止による日中の公的交流の断絶、暦道の家学化・保守化によって以後改暦は行われなくなった。 なお、大衍暦の末期には同じ中国の暦である五紀暦が併用され、平安時代中期には非公式に符天暦が参考にされたことがあるものの、宣明暦採用から823年間にわたって同一の暦が使用され続けた。宣明暦も800年以上にわたって続けられたために実際の天体の動きよりも2日間も差が生じたために改暦論が起こった。 当初は元の授時暦の移入が検討されたが、渋川春海が地理的問題などから授時暦の中国暦の直接的移入は不可であると唱えて、これに独自の修正を加えた日本最初の国産の和暦・貞享暦を作成した。貞享元年(1684年)に勅許を得た貞享暦は、翌貞享2年(1685年)に施行された。 その後、宝暦5年(1755年)に宝暦暦、寛政10年(1798年)に寛政暦、天保15年(1844年)に天保暦に改暦が行われた。これらは全て太陰太陽暦である。 そして、明治維新を機に改暦論が出された。天保暦の精度そのものは既にヨーロッパのグレゴリオ暦の水準に匹敵するどころかむしろ上回っていたが、明治政府は明治5年11月9日(1872年12月9日)に突如明治天皇の詔書と太政官布告337号を発し、明治5年12月3日をもって新暦(グレゴリオ暦)の明治6年1月1日とすることを宣言した。 これは、明治政府の当時の財政状況や、幕末の洋学者による太陽暦改暦論の存在、欧米諸国との関係の拡大という現実を考えた場合には適切な判断であったが、その一方で1000年以上の長期にわたり月の満ち欠けに従って毎月の生活リズムを形成してきた多くの一般の日本人の前に月の満ち欠けとは全く無関係な新たな暦が出現する事となり、人々に動揺を与えた。また、かつて『天経或問』で太陽暦のことを知った貞享暦の改暦者・渋川が月の満ち欠けを無視した太陽暦の暦法を「怪異の甚し、蓋し蛮人之異毒か」と糾弾しており、150年前とはいえ専門家ですら受け入れられなかった暦法を突然押し付けられた一般民衆からすれば、無理の無い話であった。そのため、改暦直後は新暦と旧暦が併用されるなどの混乱が生じた。 ともあれ、この明治6年(1873年)1月1日以後、欧米と同じグレゴリオ暦が採用されて、今日まで日本の暦法として用いられている。 現在世界の多くの地域において採用されている太陽暦の1つであるグレゴリオ暦は精巧な暦とされているが、その基準であるべき正確な太陽年と完全には同一ではなく、3224年間につき1日のずれが生じるとされる(なお、日本最後の太陽太陰暦である天保暦の方が太陽年との誤差は小さいが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}暦法の複雑さと不定時法の採用から実用性が高いとは言いがたい[独自研究?])。その問題点を掲げると以下のようになる。 そのために、グレゴリオ暦を修正あるいは改暦してこれらの問題点を解消すべきとの意見が古くから行われ、実際にフランス革命暦やソビエト連邦暦で施行されて失敗に終わった事例もある。 実際に天文学者などから提案された改暦案は大きく分けると次のようになる。
暦法の「改暦」
概要
ヨーロッパ
中国
日本
グレゴリオ暦からの改暦論
グレゴリオ暦の1年の平均は365.24250日で、平均太陽年 (365.24219日)より少し長い(前述)。
年始の位置(1月1日の決定)に天文学上も実際の社会・生活(正月関連儀式を除く)とは無関係な決定が行われている。
月の大小が不安定である(例えば、日本のかつての太陰太陽暦の場合は29日と30日の2種類であるが、グレゴリオ暦は28日から31日まで4種類ある)。
グレゴリオ暦と曜日の配置の関係が毎年変わる(曜日が次の年には平年では1つ、閏年では2つ移る)。
グレゴリオ暦がカトリック教会を中心に決められたために、他の宗教・宗派の信者の中には心理的な抵抗感を持つ者がいる(現代ではほとんど問題視されないが、プロテスタント教会や東方正教会の国々で導入が遅れたのはその影響があるとされている)。
改暦案
閏日の再配置
閏日の設置年の決定方法(置閏法)の変更を行う。例えば現在の規定よりも平年を増やす(400の倍数にあたる年のうち 3200、3600もしくは4000 で割り切れる年は閏年から外す、あるいは100の倍数にあたる年の閏年の決め方を変更する(例:100の倍数の年のうち500の倍数以外は平年)など)、閏年の間隔を変更する(「原則は4で割り切れる年を閏年、100の倍数の年のうち400の倍数以外は平年」といった現行の規約を破棄し、現在「4年」および「8年」となっている閏年の間隔を「4年」および「5年」に変更し(例:33で割った余りが3・7・11・15・19・23・27・31の年を閏年とする)、暦と季節の間に生じるずれを極力小さくする)といったことが考えられる。
年始の変更
1月1日を冬至もしくは春分と言った天文現象の発生日に変更する方法(現在の1月1日は冬至から概ね10?11日後に位置し、太陽黄経では280°?281°に相当する)。実際の太陽年をそのまま1年とする調整を加えたものであるが、冬至を算出するには複雑な天文計算を要する。なお、日本では立春を1月1日とする案が出されたことがあるが、二十四節気自体が日本やその周辺諸国にしかない概念であり、それ以外の国から支持を得るのは困難である(イスラム暦とグレゴリオ暦を必要に応じて併用しているイスラム世界のように、日本独自に立春を1月1日とする暦を併用する事も考えられるが、本節とは別の問題となるので省く)。
暦日の再配分
月の大小の変更及び閏日の設置位置の変更を行う(特に28日もしくは29日に固定された2月を30日もしくは31日にすることが主眼となる)。曜日との関係は特に考えない。1月と3月の31日目を2月に移動させて2月を平年30日・閏年31日にする案や、12月以外の偶数月は31日・奇数月を30日として12月を平年30日・閏年31日にする案などがある。
暦日及び曜日の再配分
上記に加えて7で割ると余りとなってしまう平年1日・閏年2日(余日
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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