擬洋風建築
[Wikipedia|▼Menu]
旧開智学校の車寄せと塔屋(立川流原田蒼渓の彫刻)

擬洋風建築(ぎようふうけんちく)とは、幕末から明治時代初期の日本において、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計施工された建築である。従来の木造日本建築に西洋建築の特徴的意匠や、時には中国風の要素を混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設された。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、1877年(明治10年)前後にピークを迎え、1887年(明治20年)以降に建築が途絶えており、その時期は文明開化と重なっている[1]。建物の構造は、日本伝統の和小屋組を用い、外観に洋風デザインを採用している[2]。現在に残る代表的な擬洋風建築は、松本市の旧開智学校や、山形市の旧済生館本館、弘前市の旧五十九銀行本館、青森県南津軽郡の成美館(せいびかん)など[2]
概要錦絵に描かれた築地ホテル館山形県に造られた擬洋風の官庁街(高橋由一筆)

明治維新以降、ホテル・洋式工場・小学校・役所・病院など新しい機能を持った施設が、はじめは大都市にやがて全国に求められるようになっていく[3]。西洋的な機能を持ち堅牢性を求められたこれらの施設は、洋式建築として建てられる必要があった[3]。迎賓館や造幣局など主要な施設はお雇い外国人の手によって設計監理されたが[4][5]、その他の官庁舎や地方の施設は地域の大工の手に委ねられた。

しかし、木造建築の伝統に育まれた日本の大工にとって、に由来する洋式建築(組積造)は未知の存在だった。建築様式はおろかその用途すら分からない状況の中で、伝統技術を身につけた大工たちは、伝統の側から洋式建築を解釈し、見よう見まねで洋式建築を建設する。錦絵や実物の見聞を通じて得た情報をもとに建てられた擬洋風建築は、その時たまたま出会った建物をベースに自由な折衷や創造が加わり、塔屋や車寄せなど大まかな形は共通しながらも、一つ一つの建物で異なるデザインが生まれた[3][6][7]

横浜の洋式建築を参考に東京で生まれた擬洋風建築は、多数の錦絵に描かれ大衆の反響を呼ぶ[8]。一方、山梨山形といった旧政治体制の影響力が強い地域では、土木県令と呼ばれる敏腕指導者が政府によって送り込まれ、殖産興業政策と平行して擬洋風建築による官庁街が新たに建設された[9]。また、廃仏毀釈によって解体された寺の跡地には小学校が建てられている[9]。擬洋風建築は、文明開化の象徴であると共に支配体制の移行を象徴するモニュメントでもあった[7][9]
歴史
横浜の和洋折衷建築.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "擬洋風建築" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年4月)

幕末の日本にやってきた外国人商人たちは、インド、東南アジア、南中国で慣れ親しんだ生活様式を営もうと外国人居留地でもヴェランダを巡らした建築を建設した。彼らは簡単な建築図面を日本人大工に示し、周辺で容易に入手できる材料で建設したため、大きな瓦葺屋根の日本風の建物が出現した。この例としてロレイロ邸(デント商会代理店、1862年、清水喜助)、英一番館(1863年)、フランス海軍病院(1865年)、フランス軍駐屯所(1864年頃)、ヘボン邸などがあげられ、和洋折衷といえども和風な箇所はみられなかった。

だが、1866年の豚屋火事によってこれらの建物は焼失し、居留地の都市的整備の進展や外国人技術者の登場によって、耐火性能を重視した建物に取って代わられていった。1867年に開港した神戸では当初から本格的な洋式建築が建てられ、横浜と同時に開港した函館も開拓使がアメリカ系の技術を採用したことで洋風化傾向が強まっていく。外国人居留地開設当初から横浜では一部の建物(イギリス領事館留置場など)に木造石貼構法が使われていたが、豚屋火事以後、簡便な耐火被覆としてなまこ壁がより流行した。

フランス海軍病院

フランス軍駐屯所

清水喜助の建築

開港と同時に横浜に店を開いた大工・初代清水喜助の跡を継ぎ、幕府公認の4人の請負人の一人に選ばれた2代目清水喜助は、1862年にロレイロ邸を建設し、その後アメリカ人建築技師リチャード・ブリジェンスと仕事をしていく中で西洋建築を学び、イギリス仮公使館を施工した。その後、清水喜助は、東京に築地ホテル館(1868年)と海運橋三井組(1872年)の2大洋風建築を建てた[8]

築地ホテル館は、旧幕府時代に計画された外国人向けホテルで基本設計をブリジェンスが担当した。全面になまこ壁を張り巡らし、中央に逓減を持たせた三重の塔を据えている。塔屋には華頭窓があけられ、軒先には風鐸をつるし、石造アーチの表門には木鼻がとりついている。なまこ壁はブリジェンスの基本設計にあったものだが、細部の和風意匠は清水喜助による[10][8]

海運橋三井組は、三井組が新たに創設した銀行のための建物である。木骨石造にベランダのついた洋風2階建ての?体に、複雑に折り重ねられた屋根が乗っている。屋根には唐破風千鳥破風を取り付け、方形・八角形の塔を重ねている。さらにその両側には小塔まで置かれている。初期の案では普通の屋根のオーソドックスな洋風建築だったが、三井組の希望でこのような無国籍なデザインになった[10][8]

擬洋風建築の始点となったこの二つの建物は、たちまち東京の新名所となり、多数の錦絵に描かれ日本中に広まった[8]。地方から見物に来た人々の中には、柏手を打ったり賽銭を上げる人もいたという[8]。清水喜助はさらに、第一国立銀行に強制的に譲渡させられた海運橋三井組の代わりとなる駿河町三井組(1874年)も建設した[10]。海運橋三井組と違い端正な洋風建築だが、屋上にはが鎮座しており、こちらも錦絵の題材になっている[10]

築地ホテル館

海運橋三井組

駿河町三井組

林忠恕の木造官庁建築


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:140 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef