播戸竜二
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播戸 竜二

名前
愛称バン、バンドウ
カタカナバンド リュウジ
ラテン文字BANDO Ryuji
基本情報
国籍
日本
生年月日 (1979-08-02) 1979年8月2日(44歳)
出身地兵庫県姫路市
身長171cm
体重67kg
選手情報
ポジションFW
利き足右足

クラブ1
年クラブ出場(得点)
1998-2002ガンバ大阪 34 (3)
2000-2001→コンサドーレ札幌(loan) 57 (24)
2002→ヴィッセル神戸(loan) 26 (4)
2003-2005ヴィッセル神戸 72 (26)
2006-2009ガンバ大阪 97 (28)
2010-2013セレッソ大阪 56 (17)
2013→サガン鳥栖(loan) 6 (0)
2014サガン鳥栖 5 (0)
2015-2017大宮アルディージャ 23 (5)
2018FC琉球 19 (2)
2019ガンバ大阪 - (-)
通算396(109)
代表歴2
2006-2008 日本7 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。2019年9月14日現在。
2. 2008年2月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

播戸 竜二(ばんど りゅうじ、1979年8月2日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者、俳優。現役時代のポジションフォワード。元日本代表日本サッカー協会(JFA)のアスリート委員、2021年2月1日からWEリーグの理事。2021年6月24日からは、Jリーグ選手OB会の副会長(定数は4人)にも名を連ねている[1]

2011年に、株式会社ミスタートゥエルブを設立したうえで代表取締役に就任[2]Jリーグ一筋で2019年に現役を引退した後は、2020年3月12日から2022年3月11日までJリーグの特任理事を務めていた。
来歴

姫路市立琴丘高等学校のサッカー部[3] 在籍中にはキャプテンを務める一方で、国民体育大会サッカー競技の兵庫県代表チームに選ばれていた。3年生の最後の大会(選手権県予選)では滝川第二高校の前に決勝で敗退した。

琴丘高校の卒業生である森下洋一(当時の松下電器産業社長)の後輩という縁で、3年生だった1997年の秋に、同社が運営に携わるガンバ大阪の入団テストへ参加。翌1998年に、月給10万円という条件で、練習生として入団した[4][5]。同期には新井場徹橋本英郎などの好選手が多く、公式戦への出場機会に恵まれないまま、2000年シーズンにコンサドーレ札幌期限付き移籍岡田武史監督(当時)の下でレギュラーに起用されると、クラブのJ1リーグ昇格・残留を経験する。この間、U-19/U-20日本代表でも活躍。黄金世代の1人として、1999 FIFAワールドユース選手権のメンバーにも選出され途中出場で5試合に出場、2001年にはA代表候補合宿にも招集された。

2002年からは地元ヴィッセル神戸に期限付き移籍で加入し、三浦知良と共に中心選手として活躍。リーグ最終戦では残留を大きく手繰り寄せる2ゴールの活躍を見せ、クラブを残留へ導いた。翌2003年は完全移籍を果たす。2004年はJ1で17得点を挙げ、名古屋マルケスと並び、得点ランク3位になったが、2005年はこれまで以上の他クラブの研究やマークに苦しみ、自身は怪我で半年近く離脱したこともありチームの成績も低迷、J2降格となる。シーズンオフに年俸の大幅ダウン提示を受けたことなどに伴い神戸を退団し、2006年は古巣のG大阪に復帰。史上40人目のJ1通算50得点を達成し、6試合連続ゴールを記録するなどスタメン出場するたびに得点を挙げ続け、A代表初選出。10月4日のキリンチャレンジカップガーナ戦で初出場、10月11日のアジアカップ2007予選・インド戦で初先発・初得点を記録した。リーグ終盤は足首の怪我を押して試合に出た影響でコンディションを落としたものの、キャリアでは2番目の数字となる16得点を挙げた。

2007年は、甲府からFWバレーが加入したこともあり、スーパーサブとしての起用が多くなるが、マグノ・アウベス、バレー不在時にはスタメンをはり、ゴールをあげつづけた。

2008年は足首の故障や肝機能障害などで長期離脱したが、ACLで貴重なゴールをあげるなど、重要な役割を果たし、天皇杯決勝・戦では途中出場で決勝点をあげ、優勝に貢献した。

2009年、レアンドロチョ・ジェジンペドロ・ジュニオールといった新外国人FWの加入などもあり、出場機会のほとんどは試合終盤での途中交代だった。結局この年はリーグ戦21試合出場2得点と昨季に続いて振るわず、シーズン終盤の同年11月4日に自身のブログでガンバ大阪を退団することを発表した[6]

2010年、ガンバ大阪からセレッソ大阪へ完全移籍[7][8][9]。移籍1年目は途中交代での出場が多かったが、18試合で5得点を挙げた。

2011年、8月20日の清水戦、9月10日の広島戦では途中出場ながらハットトリックを達成した。

2013年、セレッソではナビスコカップへ2試合出場したものの、リーグ戦への出場機会はなかった[10]。7月27日からは、2014年1月31日までの期限付きでサガン鳥栖へ移籍[11]。2001年まで在籍していた札幌以来、11シーズン振りに関西圏以外のJリーグチームへ活躍の場を移している。また、背番号は9となり、プロ入り後初めて一桁の番号を背負うことになった。

2014年、サガン鳥栖へ完全移籍[12]

2015年、大宮アルディージャへ完全移籍[13]。シーズン序盤は中々出番が無かったが、第12節から7試合連続で先発。移籍後初得点を、初先発の第12節ギラヴァンツ北九州戦で記録。第24節アビスパ福岡戦では、キャリア4度目のハットトリックを記録。Jリーグ在籍日本人としては最年長記録である。2017年、12月18日に契約満了が発表された[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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