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撫順戦犯管理所の門撫順戦犯管理所の建物への入り口
撫順戦犯管理所(ぶじゅんせんぱんかんりしょ、簡体字:???犯管理所)は、遼寧省撫順市順城区にあった中華人民共和国による戦犯管理所(捕虜収容所)。1936年、満洲国が建設した撫順監獄跡に設置された[1]。1950年7月ハバロフスク捕虜収容所に抑留されていた日本人捕虜が移管され[1][2]、1955年に中国人民解放軍藩陽軍区戦犯管理所へ改称された[1]。 1945年8月、日本の敗戦後、国民党が遼寧省第四監獄とする[1]。一方、日本人捕虜の一部はソ連の極東シベリア(ハバロフスク)地区捕虜収容所に抑留された[1]。シベリアで日本人捕虜は、厳寒のなか強制労働、飢餓、取り調べ、旧日本軍の民主化運動で批判されるなど苦しんだ[3]。 1948年11月、東北人民政府が遼寧省第三監獄とする[1]。 1949年、国共内戦で中華民国国民党軍に勝利した中国共産党が建国した中華人民共和国は12月16日から翌年2月までハバロフスク地区に監禁されている日本人戦犯の引き渡し交渉をした[1]。同時に、1949年12月16日から12月30日にはハバロフスク裁判が開廷し、関東軍司令官山田乙三や、731部隊(関東軍防疫給水部)、100部隊(関東軍軍馬防疫廠)が裁かれ、判決では強制労働が課された[4]。しかし、アメリカのキーナン東京裁判主席検察官やシーボルド対日理事会代表は、この判決をソ連による捏造であると非難した[5]。ただし、常石敬一は日本軍による細菌戦は事実とした[6]。 1950年2月の中ソ友好同盟相互援助条約締結の際、中国共産党の評価を高めるためにスターリンからシベリアからの日本人捕虜移管が提案されたともいわれる[2]。
沿革
ソ連収容所からの日本人戦犯引き渡し