摩多羅神(またらじん)は、密教、特に天台宗の玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。
概要によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる。
この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)の二童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒と煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているとされる。
室町時代の多武峰の修正会延年においては「ヤマタラ神ハ仏カナ」「ヤホトケカマイレハ願ヲミテ給フ」などの「摩多羅神拍子」が歌われた。
江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった[1]。また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされる。
服部幸雄は、宿神である秦河勝の実体は摩多羅神であるという論を展開し、摩多羅神と秦河勝は同一視できると主張した[2]。
曽根原理は、玄旨帰命壇で説かれる「一心三観=無である」という論を重視し、摩多羅神を信奉する乗因などのいわゆる「異端派」が、それに反対する霊空などの「正統派(安楽律派)」と対立し、それゆえに摩多羅神が弾圧されたかのように見えたと主張した[3]。
しかし実際は、「正統派(安楽律派)」の中で権僧都に昇り執当に任じられた真如院覚深は『摩多羅神私考』の中で「摩多羅神は(崇神天皇紀の大物主神のように)行疫神であり国家守護の神である」と述べている上、寛永寺貫主公弁法親王に重用され大僧正に昇った鶏足山覚深も『摩多羅神行要記』の中で同様の旨を述べており、摩多羅神自体が弾圧されていたという事実は存在しない[3]。
また、妙法院では18世紀になっても摩多羅神が信仰されていたことが掛軸により判明している。玄玄院堯憲からの付法を妙法院門跡であった堯恕法親王が書き留めた『帰命壇聞書』には、中世の玄旨帰命壇や摩多羅神信仰の様子が色濃く残されている。妙法院には、寛永寺とは異なり、伝統教学に基づく玄旨帰命壇・摩多羅神観が存在していたと考えられる[3]。
なお、真如院の摩多羅神図について、『諸抄記』に
長三尺巾一尺五寸程、絹地にて中古表せしものと見ゆ。
烏帽子狩衣様の服、共に俗士なり、中の上位の俗士(摩多羅神とされる)は口の上下共にあり、下の俗士向って右は口の上にあり、左手に竹枝をもち、右手に杓を持つ。向つて左はなし、左手に皷を持ち右の手にて打たんとす。面して上段の俗士は静止して鼓を打つ。下段の二士は共に舞ふ相なり。下の俗士は童男女にあらす。赤、此画には星の図なし茗荷なし、又、狩衣の模様はなでしこの繪なり、『鹽尻』に出づるものと異なれり。
とある[4]。 摩多羅神についての記述が初めて見えるのは、守覚法親王が記した『北院御室拾要集
資料に見える摩多羅神
鎌倉時代末期に光宗によって記された『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が唐から五会念仏の行法を相伝しての帰途、船の虚空に声が聞こえ、その声は「私は摩多羅神であり、障りをなす神である。私を祀らなければ往生の願いを成就させることはできない」と言ったという。これがきっかけとなり、常行堂には摩多羅神が祀られることになった。また、光宗は、摩多羅神とは摩詞迦羅天のことであり、荼枳尼天のことでもあるとしている。そして、荼枳尼天の事(肝を食べること)はまったくの秘事であり、常行堂の堂僧でさえ知らず、口にしてはならない大事であり、秘めて尊崇すべきであると述べている。加えて「一説には」という形で、摩多羅神とは摩詞迦羅天のことであり、それは経典の「能延六月法」が根拠となっているという。それによると、人間の臨終に際し、その精気を奪うため悪鬼がやってくるが、摩詞迦羅天はそれらを降伏せしめ、精気が奪われるのを防ぐ。これによって人間は臨終正念が得られるため、6ヶ月の間成し遂げられる秘法を思うべきである、としている[4][注釈 2]。
月舟寿桂が記した『日本書紀神代巻抄』では、唐土の青龍寺の鎮守である金毘羅権現の父は素戔嗚尊であり、その別名が摩多羅神であると説かれている[5][注釈 3]。
叡山真如蔵『玄旨灌頂私記』によると、「摩多羅」とはサンスクリット語であり、その意は「大日如来(大=人間の六大=地、水、火、風、空、識を、日=人間の六識を表す)」であるという。そして摩多羅神とは「六識ノ心王=(六識の心の主体)」であり、脇の二童子は「六識ノ麁細ノ心數(大小の六識の在り処)」を表す。