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摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治体制のことである。 乙巳の変の勲功者である藤原鎌足の子藤原不比等はそれぞれ娘の宮子を文武天皇に入内させ、安宿媛(光明皇后)を聖武天皇に入れていた。不比等没後に子の藤原四兄弟は長屋王の変で皇親政治を終わらせ、安宿媛を人臣初の皇后に登らせることで藤原氏の地位の基礎を築いた。しかし四兄弟が疫病で斃れた後の藤原氏には、橘諸兄と玄ムに聖武天皇の信任を奪われて藤原広嗣の乱に至ったり、光明皇后の没後にその娘の孝謙上皇からの信任を道鏡に奪われて藤原仲麻呂の乱に追い込まれたりするなどの後退局面もあった。いずれも藤原氏官人の多数は反乱鎮圧側についたため反乱後も藤原氏の命脈は保たれた。称徳天皇(孝謙の重祚)の崩御後、藤原氏は光仁天皇擁立を主導しその地位を保全した。光仁および桓武天皇の皇位継承の最功労者は藤原式家の藤原百川であり、式家の藤原種継・藤原仲成父子も天皇の信任を得たが、薬子の変で仲成は誅殺された。北家支配の足がかりを作ったのは藤原冬嗣であり、冬嗣は810年、薬子の変に際して嵯峨天皇から蔵人頭に任命され、変に勝利したのち弘仁格式を撰上するなどした。 冬嗣の子の藤原良房は、皇位継承が迭立である状況において、842年に当時の仁明天皇の実子であり自らの甥かつ婿である道康親王を皇太子に立てることに成功(承和の変)し、道康(文徳天皇)の即位により確固たる地位を得た。857年には良房が太政大臣に就任した。当時の太政大臣は太政官の全てを管轄し天子の師範たる職とされ、その職掌は後に摂関に吸収されることになる。文徳天皇と良房の娘の子である清和天皇が即位すると、良房は9歳の天皇の外祖父となる。866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させると、良房は人臣初の摂政に任じられる。 良房の死後、養子の藤原基経が権力を継承し、876年に清和が子の陽成天皇(9歳)に譲位すると、陽成の母高子の兄である基経は摂政となる。884年、基経と高子の仲違いもあり、基経は陽成の廃位を主導し、自らの従兄弟で年配の光孝天皇を即位させ、基経は事実上の関白に就任した。良房の摂政就任時に清和天皇は既に元服していたように、この時期の摂政と関白の職権の違いは定かでなく、これに関連して887年に、光孝の子の宇多天皇が即位に際して基経を関白に任じようとする勅文に基経が不服を唱える阿衡事件が起こっている。母が班子女王である宇多は藤原氏と血縁は薄かったが、基経が出仕を拒むと基経をおそれる多くの官吏がそれに倣って政務が滞ったため、宇多天皇はその影響力に屈して基経の権勢を認めることとなった。 891年に基経が死ぬと、基経の嫡子の藤原時平が若いこともあって宇多天皇は以後関白を置かず、菅原道真を登用して藤原氏への牽制を図った(寛平の治)。宇多は醍醐天皇に譲位した後も摂関を置かせず、時平と道真を共に内覧に当てたが、時平は901年に道真を左遷へ陥れ、宇多法皇の介入を排除した(昌泰の変)。単独の内覧となった時平は延喜の治を支える手腕を発揮したが、39歳で死去したこともあり摂政・関白には就任していない。 次の摂政・関白の就任者は時平の弟の藤原忠平である。930年に醍醐天皇が危篤となると、幼い朱雀天皇への譲位と同時に摂政に任じられた。続いて941年に天皇が成人すると、忠平は摂政の辞表を提出したが、改めて関白に任命された。同時代の記録から確認される天皇の成人に伴う摂政から関白への地位の異動はこれが初めての例であり、今日では天皇が幼少時には摂政、成人後は関白になる例はこの時に誕生したと考えられている。
前史
良房から実頼まで