摂関政治
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出典検索?: "摂関政治" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年9月)

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代藤原氏藤原北家)の良房流一族が、天皇外戚として摂政関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治体制のことである。
前史

乙巳の変の勲功者である藤原鎌足の子藤原不比等はそれぞれ娘の宮子文武天皇に入内させ、安宿媛(光明皇后)を聖武天皇に入れていた。不比等没後に子の藤原四兄弟長屋王の変皇親政治を終わらせ、安宿媛を人臣初の皇后に登らせることで藤原氏の地位の基礎を築いた。しかし四兄弟が疫病で斃れた後の藤原氏には、橘諸兄玄ムに聖武天皇の信任を奪われて藤原広嗣の乱に至ったり、光明皇后の没後にその娘の孝謙上皇からの信任を道鏡に奪われて藤原仲麻呂の乱に追い込まれたりするなどの後退局面もあった。いずれも藤原氏官人の多数は反乱鎮圧側についたため反乱後も藤原氏の命脈は保たれた。称徳天皇(孝謙の重祚)の崩御後、藤原氏は光仁天皇擁立を主導しその地位を保全した。光仁および桓武天皇の皇位継承の最功労者は藤原式家藤原百川であり、式家の藤原種継藤原仲成父子も天皇の信任を得たが、薬子の変で仲成は誅殺された。北家支配の足がかりを作ったのは藤原冬嗣であり、冬嗣は810年、薬子の変に際して嵯峨天皇から蔵人頭に任命され、変に勝利したのち弘仁格式を撰上するなどした。
良房から実頼まで

冬嗣の子の藤原良房は、皇位継承が迭立である状況において、842年に当時の仁明天皇の実子であり自らの甥かつ婿である道康親王を皇太子に立てることに成功(承和の変)し、道康(文徳天皇)の即位により確固たる地位を得た。857年には良房が太政大臣に就任した。当時の太政大臣は太政官の全てを管轄し天子の師範たる職とされ、その職掌は後に摂関に吸収されることになる。文徳天皇と良房の娘の子である清和天皇が即位すると、良房は9歳の天皇の外祖父となる。866年応天門の変において両氏を失脚させると、良房は人臣初の摂政に任じられる。

良房の死後、養子の藤原基経が権力を継承し、876年に清和が子の陽成天皇(9歳)に譲位すると、陽成の母高子の兄である基経は摂政となる。884年、基経と高子の仲違いもあり、基経は陽成の廃位を主導し、自らの従兄弟で年配の光孝天皇を即位させ、基経は事実上の関白に就任した。良房の摂政就任時に清和天皇は既に元服していたように、この時期の摂政と関白の職権の違いは定かでなく、これに関連して887年に、光孝の子の宇多天皇が即位に際して基経を関白に任じようとする勅文に基経が不服を唱える阿衡事件が起こっている。母が班子女王である宇多は藤原氏と血縁は薄かったが、基経が出仕を拒むと基経をおそれる多くの官吏がそれに倣って政務が滞ったため、宇多天皇はその影響力に屈して基経の権勢を認めることとなった。

891年に基経が死ぬと、基経の嫡子の藤原時平が若いこともあって宇多天皇は以後関白を置かず、菅原道真を登用して藤原氏への牽制を図った(寛平の治)。宇多は醍醐天皇に譲位した後も摂関を置かせず、時平と道真を共に内覧に当てたが、時平は901年に道真を左遷へ陥れ、宇多法皇の介入を排除した(昌泰の変)。単独の内覧となった時平は延喜の治を支える手腕を発揮したが、39歳で死去したこともあり摂政・関白には就任していない。

次の摂政・関白の就任者は時平の弟の藤原忠平である。930年に醍醐天皇が危篤となると、幼い朱雀天皇への譲位と同時に摂政に任じられた。続いて941年に天皇が成人すると、忠平は摂政の辞表を提出したが、改めて関白に任命された。同時代の記録から確認される天皇の成人に伴う摂政から関白への地位の異動はこれが初めての例であり、今日では天皇が幼少時には摂政、成人後は関白になる例はこの時に誕生したと考えられている。

忠平の死後、村上天皇の親政(天暦の治)が行われ、摂政・関白の座は空位となった。醍醐天皇の延喜の治と村上天皇の天暦の治は後世においては、摂関が置かれず天皇が親政を行った時代として理想視されることになるが、実際には当時の摂政・関白は非常置の地位でしかなかったために任命すべき事情がなければ空位とされる官職であったこと、摂政・関白が置かれていなくても忠平の長男藤原実頼が左大臣(一上)として国政を運営していたことなど、藤原北家の良房流が国政を掌握する構造自体に変化があった訳ではなかった。村上天皇の崩御により、病弱で政務の遂行が難しかった冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白に就任し、続いて太政大臣・准摂政に任ぜられる。以後、後醍醐天皇による建武の新政の時期などの例外を除いて、明治維新まで摂政・関白が常置されることとなる。
道長・頼通まで

安和の変による源高明の追放、次いで源兼明の皇族復帰によって他氏排斥が完了した後は、藤原北家の内部で権力争奪が行われることとなった。安和の変後、冷泉円融両天皇の外戚であった藤原師輔の子である藤原兼通兼家兄弟が摂関の座を争って互いにその出世を妨害しようとした。

権中納言から後継の関白の地位を得た兼通は、内覧・内大臣を経て関白に就任した。兼通に関白就任に必要な大臣の資格を与えるために内大臣が72年ぶりに設置された[注釈 1]。だが、兼通の上位には左大臣源兼明と右大臣藤原頼忠(後の関白)がおり、兼通はその次の席次であった上に、兼明は一上として太政官の実権を掌握していた。そこで兼通は太政大臣に就任して源兼明を皇族に復帰させて左大臣を止めさせる詔勅を出させ、頼忠を一上に任命した。兼通は自身の子弟を公卿に昇進させてその世襲化を図ったが、息子達を公卿に任じ終えた直後に病死したために挫折した。

兼通によって長年不遇であった兼家は一条天皇の外祖父として摂政に就任した。兼家は右大臣であったものの、上位に太政大臣藤原頼忠(前関白)・左大臣源雅信がおり、雅信が一上であった。頼忠・雅信排除の名目を見出せなかった兼家は、自ら右大臣を辞して替わりに准三宮の待遇と一座宣旨を受けて、前大臣でありながら摂政後に関白として百官の上位に就いた。以後、摂政・関白の宮中での席次は、太政大臣よりも上位と考えられるようになったが、一方で摂関は陣定に出席しないことが慣例となった(「寛和の例」)。兼家は4人の子息と義弟を公卿に昇進させ、嫡男の藤原道隆を内大臣に任じて関白の地位を譲ったところで死去した。

この後、一条天皇は寵愛する藤原定子の兄で道隆嫡男の藤原伊周を関白に就けようとするが、自らの母の藤原詮子の強請に屈して995年に摂関を置かず兼家の五男であった藤原道長を内覧に任じた。道長は摂関でない内覧として陣定にも出席して権力を確立し、皇位継承に関して一条天皇と三条天皇に要求を押し付けるほどの権勢を持った。道長が摂関の地位に就いたのは、1016年の外孫の後一条天皇が即位して摂政に就任してからの1年程に過ぎず、すぐに息子の藤原頼通に譲っている。


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