摂理_(神学)
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、神学思想について説明しています。日本で「摂理」と通称される韓国新宗教については「キリスト教福音宣教会」をご覧ください。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "摂理" 神学 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年11月)
プロビデンスの目

摂理(せつり、: πρ?νοια、: providentia、: Providence)とは、創造主であるによる被創造物への計画・配慮である[1]。神意(しんい)、神慮(しんりょ)等とも。
語源

「摂理」は、古代ギリシア語では"πρ?νοια" (pronoia)、ラテン語では"providentia"、英語では"providence"(プロヴィデンス)に当たる。ラテン語の"providentia"は動詞の"providere"から来ており、pro(前を) + videre(見る)、すなわち「予見」を意味する。

キリスト教での「摂理」は、「(神ならではの)予見とそれに伴う配慮」という意味で用いられ、英語であれば、"Providence"と通常、語頭が大文字にされる。
古代ギリシア・ローマにおける「摂理」

「人智の及ばない(人間の理知を超えた)神意・神慮・神の理法」としての摂理の観念は、古代ギリシアにおいては、ギリシア神話以来の古い歴史を持ち、ギリシア哲学においても、ソクラテスプラトンアリストテレスストア派などによって説かれ、ヘレニズム時代や、古代ローマ以降の後世にも大きな影響を与えた。

ストア派哲学を学んだ第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、その著書『自省録』において「神の御業は摂理に満ちている」[注 1]と述べている。また、新プラトン主義の代表的哲学者であるギリシアのプロクロスには『摂理、運命と自由について』[3]や『摂理をめぐる十のアポリアについて』[4]等の著作がある。
キリスト教における「摂理」

キリスト教においては、「摂理」は人生の出来事や、人間の歴史は、神の深い配慮によって起きているということで、聖書に基づいたキリスト教の人生観を言い表している(ローマの信徒への手紙8:28を参照)。ヒンドゥー教仏教の「因果・カルマ」、また、イスラム教の「運命・アッラーの意志」と比較することによって、その概念の特徴を浮き立たせることができる。「神の摂理」(英語: Divine Providence)、あるいは単に「摂理」(英語: Providence)という形で用いられる。

この摂理(Providence)という考えは「カルヴァン主義」として知られる、ジャン・カルヴァン(1509年-1564年)の考え方に見られる。

カルヴァン主義では、人間の堕落ぶりと、神の偉大さが指摘された。

カルヴァンによれば、神が創った世界と人間は、神の意思や摂理(Providence)によって導かれている。神が人間に自由意志を与え、人間は個別に判断することが可能になったものの、我々人間の認識能力の不足や、(悪魔が作り出す)様々な幻覚によって惑わされ、神がもともと我々のために定めておいた計画を、人間は放棄してしまっているのだ、とされる。この考え方では、摂理(Providence)は「(神の)予定」(predestination)と結びついている(「予定説」も参照のこと)。カルヴァンの「摂理」の理解は、イスラム教の「運命」の概念に近く、カルヴァンよりも、神の愛の支配と人間の意志との関わり合いを柔軟に捉えるウエスレアン・アルミニアン主義から批判を受けている。

人生の諸事、また、世界の歴史の背後にある神の摂理、また、それと関わっている神の意志(聖旨・みこころ)について考える時、以下の二つを区別することが、その理解のために大切である。すなわち、

第一に「神の積極的な意志」(A Positive Will Of God):神の積極的な意志とは、神が心から望み、願っておられることどもで、聖書に命じられていることによって、また、聖書の事例から推論することによって、それを知ることができる。

第二には「神の消極的な意志」(A Permissive Will Of God):災害や悪など、神のみこころを外れては何事も起こりえないが、神が積極的にそれを望まないで、人の罪ゆえにやむを得ず、それが起こることを許容していることどもの範疇。

いずれにしても、神は全知・全能であるので、その聖旨(みこころ、Will)は、完全であり、常に、愛と善意とによって特徴づけられている(The Perfect Will Of God)。

摂理という考え方は、カルヴァンの後も、例えばピューリタンによって用いられている。現代でも多くのプロテスタントの教派によってそれは継承されている。例えば、バプテスト教会長老派教会などである。

キリスト教のエヴァンゲリストのなかには、聖書の中のいくつかの節の解釈を通して、現在のできごとを理解したり、将来起きるであろうことを予想しようとした者たちもいる。このようなエヴァンゲリスト流の聖書解釈の行為は、彼らにとっての神の完璧な言葉である聖書を理解することで「摂理」つまり神の計画を知ろうとする行為だったのだ、と見ることができる。

「摂理」という考え方は、1620年に(英国から米国へ移民したピルグリム・ファーザーズの以下のような表明にも見られる。「道徳と信仰に反する奴隷状態」は神の摂理に反する。

また、神の摂理というのは、1764年エマヌエル・スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)が出版した著作の題名にもなっており(『神の摂理』Divine Providence)、スヴェーデンボリ流の摂理観、自由意志予定説、などが描かれている。
アウグスチヌスの思想

古代キリスト教の教父、神学者である、司教アウグスチヌスは、森羅万象を貫くその根本にある法則を神の「摂理」と呼んでいる[5]。アウグスチヌスは、世界が神の「摂理」の下にあると信じつつも、ではなぜ世界に悲惨な事象が数多く起こり得るのかについて疑問を感じた。これらの不可解な多くの事象がどのように「摂理」という概念と結びつくのかをアウグスチヌスは探求し、その考察を『神国論』に記した[5]

歴史学者の近山金次によると、アウグスチヌスは、歴史を神の「摂理」において捉えようとした。アウグスチヌスは『神国論』の記述に当たっても、常に聖書に依拠し、絶えず神の助力を要望したという。アウグスチヌスは歴史哲学の創始者のように見られることが多いが、『神国論』は歴史哲学というより、歴史神学と言うべきであり、アウグスチヌスにとって、歴史は神の「摂理」、神学においてでしか確立し得ないといえる[5]

また、アウグスチヌスの歴史観は、神の「摂理」の中に歴史の意味を探求するものであり、その意味でヨーロッパの歴史はキリスト教思想抜きに語れないものであり、キリスト教思想の基盤であるキリストの啓示なくしては理解しえないものとして、近山は論じている[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef