摂津国
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摂津国

■-摂津国
■-畿内
別称摂州(せっしゅう)
所属畿内
相当領域大阪府北中部の大半、兵庫県南東部
諸元
国力上国
数13郡78郷
国内主要施設
摂津国府1.(推定)大阪府大阪市天王寺区
2.(推定)大阪府大阪市中央区
摂津国分寺1.(推定)大阪府大阪市天王寺区
2.(推定)大阪府大阪市北区
摂津国分尼寺(推定)大阪府大阪市東淀川区
一宮住吉大社(大阪府大阪市住吉区
坐摩神社(大阪府大阪市中央区)
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摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本令制国の一つ。近畿地方に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。
沿革
古代

瀬戸内海航路の起点で、淀川大和川水系との結節点でもあり国内流通の中心である難波津住吉津があり津国(つのくに)と呼ばれた。

第14代仲哀天皇9年、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)(現在の大阪市の当時住吉郡)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀る(住吉大社の始まり)。

神武天皇は即位前、上町台地先端周辺の難波埼(なにわさき)に生國魂神社を創建。弥生時代後期?古墳時代応神天皇行宮難波大隈宮(なにわのおおすみのみや)。大王 (おおきみ)と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居、難波高津宮(なにわのたかつのみや)などが営なまれた。国内流通の中心である難波津や住吉津が開港され倭国が統一していった時代とされる。

593年日本の仏教の祖である推古天皇摂政聖徳太子難波の荒陸に四天王寺を造立した。

645年孝徳天皇は再び難波に遷都し、大化の改新と呼ばれる新政はこの地で行なわれた。652年、大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の難波高津宮跡地周辺に難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。孝徳天皇の後、都は飛鳥に戻ったが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、畿内の外港を抱える要地難波宮を副都とし、国司を置く代わりに、津国を摂(管掌)する機関として特に摂津職(せっつしき)を置いた。摂津職は京官とされ、大夫・亮・進・属の四等官で構成された。

前期難波宮は天武期に焼失したが、神亀3年(726年)、聖武天皇が難波宮(後期難波宮)の造営に着手し、平城京の副都とした。天平16年(744年)には恭仁京から難波京への遷都が実施された。聖武天皇は遷都の翌年再び平城京に遷ったが、その後も難波は副都として維持された。しかし、桓武朝長岡京遷都に伴って難波宮が解体され、副都の実は失われたため、延暦12年(793年)3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠し、「せっつのくに」とも呼び、また元の津国の訓みそのままに「つのくに」とも呼んだ。

難波津も土砂の堆積が進み、その機能は淀川分流にある神崎江口などに移っていった。

清和源氏の祖・源経基の子・満仲は摂津守に任ぜられて河辺郡多田荘に館を構え、またその長子・頼光も摂津守に就き、子孫が所領を継承して摂津源氏と称した。頼光四天王の筆頭に挙げられる嵯峨源氏源綱は、源満仲の娘婿・源敦(仁明源氏)の養子となり、母方の里である渡辺に居住し、渡辺氏の祖となった。
中世

平安時代末期、日宋貿易を重視した平清盛大輪田泊神戸市兵庫区)に着目し、湊の前面に人工島(経が島)を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事を行なった。仁安3年(1168年)、清盛は出家して福原(神戸市中央区から兵庫区)に別荘をかまえ、以来ここに住んで周辺一帯を経営した。治承4年(1180年)、清盛は大輪田泊を見下ろす山麓に福原京を築き、平安京からの遷都を強行した。しかし、11月には京に還都となった。

鎌倉時代に入ると、東大寺重源が中絶していた大輪田泊の修築事業に乗り出し、やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、室町時代には日明貿易の拠点となった。

室町時代、摂津の守護職管領細川氏が世襲した。ただし、細川氏を牽制する意図から室町幕府は国内各地に分郡守護を設置した。このため、室町時代初期(南北朝合一を果たした明徳年間前後)に細川氏の安定した支配が確立していた今日の千里丘陵より東側の地域(島上郡島下郡のほぼ全域)を上郡(かみのこおり)と総称された。その後、応永年間までに千里丘陵以西の摂津平野部を掌握した細川氏は豊島郡川辺郡南部・武庫郡菟原郡八部郡を下郡(しものこおり)と称した。ただし、上郡・下郡は本来の郡境と全く合致したものではなく、有馬郡においては播磨守護赤松氏が分郡守護となって一族の有馬氏が支配しており、川辺郡北部や能勢郡清和源氏ゆかりの多田院に与えられていた(多田院御家人)が後に同地の国人・奉公衆であった能勢氏は細川氏の傘下に加わっている。そして、神崎川以南の西成東成住吉の3郡(ほぼ現在の大阪市域)別に分郡守護が置かれて細川氏の支配から欠けていたため、欠郡(かけのこおり)と総称された。欠郡は嘉吉の乱後に細川氏の支配下に入るが守護家である宗家(京兆家)ではなく、庶流である典厩家が支配するなど異なる支配体制が取られた[1]。なお、有馬郡も天文年間に赤松氏宗家が衰退すると、有馬氏が細川氏(実質は下郡の守護代であった三好氏)の傘下に入ることになる[2]
近世以降の沿革

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(975村・416,236石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。

東成郡(61村・36,679石余) - 幕府領(代官支配)、旗本領大阪城代役知、京都守護職役知、相模小田原藩

西成郡(138村・54,057石余) - 幕府領(代官支配)、旗本領、田安徳川家領、下総古河藩宮家


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