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出典検索?: "摂政皇太子"
摂政皇太子(せっしょうこうたいし、英語: prince regent, prince-regent)は、君主が幼かったり、病気によって無能力状態に陥っていたり、あるいは、亡命したり長い航海などで遠隔地にいて不在となる場合に、君主に代わって摂政として君主国を統治する王子。この表現は普通名詞であり、誰であれ、摂政の役割を果たす王子を指すことができるが、実際には、摂政を務めた王子たちのうち、少数の者だけが、それぞれの歴史的状況において、この名で言及されてきた。
なお、ここで「皇太子」は、皇帝、天皇に限らず君主の継承順位首位者を指しているが、「皇太子」を狭義にのみ用い、王位継承については「王太子」といった表現を用いる場合は、摂政王太子という表現を用いることもある。
イギリスにおける摂政王太子詳細は「摂政時代」を参照
英語圏で「摂政王太子 (Prince Regent)」といえば、一般的にはイギリス国王ジョージ4世のことである。父王ジョージ3世が精神異常をきたして無能力状態に陥ったため、プリンス・オブ・ウェールズであったジョージが摂政となった。ロンドンにあるリージェンツ・パークやリージェント・ストリートは、この後のジョージ4世にちなんで名付けられたものである。
ジョージ4世が、即位に先立ち摂政王太子として統治した時代は、「イギリスの摂政時代 (British Regency)」、あるいは単に「摂政時代 (Regency)」と呼ばれる。
摂政王太子の称号は、1811年2月5日にジョージに与えられた。当初の間は摂政の権限には一定の制約があったものの、摂政王太子は国王のあらゆる権能を執行することができた。1788年に父王ジョージ3世が最初の狂気の発作に見舞われた「摂政危機 (Regency Crisis)」(このときはジョージ3世がいったん回復したため摂政を置くには至らなかった)と同様の状態が、やがて再発した。ウェールズ公ジョージは、父王崩御の1820年まで摂政を務めた後、即位してジョージ4世となった。 ドイツで「摂政王子/摂政宮 (Prinzregent)」といえば、一般的にはバイエルン王国の王子ルイトポルトのことである[1]。ルイトポルトは、自分の甥にあたる2人のバイエルン王、すなわち1886年に精神障害と宣告されたルートヴィヒ2世と、即位に先立つ1875年に発狂が宣告されていたオットー1世に代わって、1886年から1912年に没するまで摂政を務めた。 ルイトポルトの摂政時代、バイエルン王国では芸術・文化活動が高揚し、後年「摂政宮時代 (Prinzregentenjahre, Prinzregentenzeit)」と称されるようになった。バイエルンの都市や町には、「摂政宮通り (Prinzregentenstrase)」と名付けられた通りが数多くある。ルイトポルトを讃えて名付けられた組織なども多く、例えば、ミュンヘンには「摂政宮劇場 (Prinzregententheater
ドイツにおける摂政王子
ルイトポルトは1912年に没し、その息子ルードヴィッヒが後を継いで摂政宮となった。ルードヴィッヒはその後1年も経たないうちにバイエルン議会の決定によって国王と認められた。 ルクセンブルク大公の後継者である皇太子は、現大公が大公位に形式上は留まったまま、皇太子が「君主見習い」として君主の機能の大部分を徐々に代行するようになると、prince-lieutenant(「大公代理」の意) の称号で呼ばれることがある。大公ジャンは、先代であった母シャルロットの在位(1919年 - 1964年:ただし、1985年まで存命)の最後の時期にあたる1961年5月4日から1964年11月12日に、君主の仕事を代行した。
ルクセンブルクの「大公代理」