摂家
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、公家家格の頂点に立った5家の五摂家について説明しています。

かつての名古屋の名門企業5社(名古屋五摂家)のことについては「愛知県#かつての五摂家」をご覧ください。

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流公家家格の頂点に立った近衛家一条家九条家鷹司家二条家(序列順[注釈 1])の5つの一族のこと[1]大納言右大臣左大臣を経て摂政関白太政大臣に昇任でき、藤氏長者に就く資格を有した。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ。「執柄」とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)ともいう。
歴史
摂関家の成立

平安時代前期、藤原北家良房清和天皇外祖父として人臣初の摂政に任官し、その養子の藤原基経が関白の地位を占め4代に渡って執政の任についたことで、藤原北家基経流は他氏や藤原氏諸流と一線を画した家として扱われるようになった。延喜・天暦の治と呼ばれる天皇親政期を除いては摂関が常置されるようになり、基経の子孫がこれを占めた。摂関の地位は基経の子孫の諸流で争われるようになり、師輔の子孫である九条流が主導権を握った[2]。師輔の子孫は8代に渡る天皇の外戚となり、中でも道長は長年内覧一上として朝廷政治を掌握し、3代の天皇に自らの娘を嫁がせることで摂関政治の最盛期を築き上げた[3]。この権勢は荘園の増大にも繋がり、「天下の地悉く一の家(道長家)の領となり、公領は立錐の地もなき歟、悲しむべき世なり」(『小右記』)と評されるほどの膨大なものとなった[4]。道長の子孫は御堂流と呼ばれる。中でも道長の嫡子である頼通は50年にわたって摂関を務めている。弟教通は頼通から譲りを受けて関白となったものの、子の信長への権力継承に失敗し、頼通の子師実が嫡流として扱われるようになった。

一方で頼通とミウチ関係にない後三条天皇が即位すると、御堂流嫡流の権勢にも陰りが生まれた。頼通は晩年に教通から嫡子師実への摂関移行を求めたが、天皇はこれを拒絶している[5]。また院政期に入り、若年の忠実が当主となると、その傾向は更に強くなった。『愚管抄』によれば、鳥羽天皇が即位した際には、外伯父であった閑院流藤原公実が摂政の任を望むという事態が発生したとされる。治天の君であった白河上皇が縁戚である公実に遠慮して決定を下せずにいたところ、院近臣源俊明が強硬にせまって院宣を取得し、忠実を摂政に据えたという[6][7]。この出来事は摂関が天皇との外戚関係によって定まるものではないことを明確に示した出来事であり、外戚関係の有無に関わらず摂関を世襲する家としての摂関家が成立した出来事とされている[6]。さらに院政が進む中で朝廷の陣定などの意思決定機関は形骸化し、院や天皇の前での御前定・殿上定が政治の場となった(院評定)。これらの場への参加を決めるのは治天の君であり、摂関はかつてのような権力を持つものではなくなった[8]。一方で白河上皇は摂関家を軽んじていた訳ではなく、崇徳天皇中宮に忠実の子忠通の娘を据えるなど摂関家が再び外戚となることを望んでいた。しかし忠実の行動には問題が多く、上皇は忠実を処罰して隠居に追い込んでいる[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:111 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef