摂家
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この項目では、公家家格の頂点に立った5家の五摂家について説明しています。

かつての名古屋の名門企業5社(名古屋五摂家)のことについては「愛知県#かつての五摂家」をご覧ください。

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流公家家格の頂点に立った近衛家一条家九条家鷹司家二条家(序列順[注釈 1])の5つの一族のこと[1]大納言右大臣左大臣を経て摂政関白太政大臣に昇任でき、藤氏長者に就く資格を有した。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ。「執柄」とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)ともいう。
歴史
摂関家の成立

平安時代前期、藤原北家良房清和天皇外祖父として人臣初の摂政に任官し、その養子の藤原基経が関白の地位を占め4代に渡って執政の任についたことで、藤原北家基経流は他氏や藤原氏諸流と一線を画した家として扱われるようになった。延喜・天暦の治と呼ばれる天皇親政期を除いては摂関が常置されるようになり、基経の子孫がこれを占めた。摂関の地位は基経の子孫の諸流で争われるようになり、師輔の子孫である九条流が主導権を握った[2]。師輔の子孫は8代に渡る天皇の外戚となり、中でも道長は長年内覧一上として朝廷政治を掌握し、3代の天皇に自らの娘を嫁がせることで摂関政治の最盛期を築き上げた[3]。この権勢は荘園の増大にも繋がり、「天下の地悉く一の家(道長家)の領となり、公領は立錐の地もなき歟、悲しむべき世なり」(『小右記』)と評されるほどの膨大なものとなった[4]。道長の子孫は御堂流と呼ばれる。中でも道長の嫡子である頼通は50年にわたって摂関を務めている。弟教通は頼通から譲りを受けて関白となったものの、子の信長への権力継承に失敗し、頼通の子師実が嫡流として扱われるようになった。

一方で頼通とミウチ関係にない後三条天皇が即位すると、御堂流嫡流の権勢にも陰りが生まれた。頼通は晩年に教通から嫡子師実への摂関移行を求めたが、天皇はこれを拒絶している[5]。また院政期に入り、若年の忠実が当主となると、その傾向は更に強くなった。『愚管抄』によれば、鳥羽天皇が即位した際には、外伯父であった閑院流藤原公実が摂政の任を望むという事態が発生したとされる。治天の君であった白河上皇が縁戚である公実に遠慮して決定を下せずにいたところ、院近臣源俊明が強硬にせまって院宣を取得し、忠実を摂政に据えたという[6][7]。この出来事は摂関が天皇との外戚関係によって定まるものではないことを明確に示した出来事であり、外戚関係の有無に関わらず摂関を世襲する家としての摂関家が成立した出来事とされている[6]。さらに院政が進む中で朝廷の陣定などの意思決定機関は形骸化し、院や天皇の前での御前定・殿上定が政治の場となった(院評定)。これらの場への参加を決めるのは治天の君であり、摂関はかつてのような権力を持つものではなくなった[8]。一方で白河上皇は摂関家を軽んじていた訳ではなく、崇徳天皇中宮に忠実の子忠通の娘を据えるなど摂関家が再び外戚となることを望んでいた。しかし忠実の行動には問題が多く、上皇は忠実を処罰して隠居に追い込んでいる[9]

藤原忠通の後継者問題は摂関家に深刻な問題をもたらした。元々、忠通の父・忠実は忠通が弟の頼長及びその子である兼長を養子に迎えて摂関家を譲ることを望んだ。しかし、忠通はこの縁組を実子が誕生しなかったときの「中継ぎ」と認識していたらしく、忠通に嫡子基実が誕生すると縁組を解消しようとした。しかし、大殿である忠実は基実の廃嫡と高陽院との養子縁組を宣言して忠通の子孫を摂関家の嫡流から外す意思を明確化すると忠通は反発し、ついに忠通に与えていた藤氏長者の座を奪って頼長に与えた。この騒動が保元の乱の一因となった。乱の結果、頼長が戦死して忠実と兼長も処罰され、戦後処分において頼長の所領が没収されたため、摂関家は所領を大きく失った。基実は嫡男として摂関の地位を継ぐが、長く傍流と位置づけられていたために摂関家継承の条件と考えられていた近衛大将に就かないままの就任となった。加えて、基実の嫡男である基通平治の乱で処刑された藤原信頼の妹を母としていたことから、晩年の忠通は基実?基通の系統を嫡流から外そうと考えたと言われている[10]。この構想は具体化する前に忠通は死去するが、樋口健太郎は基実の同母弟である基房[11]を、野村育世は異母弟である兼実[12]を後継者として考えていたとしている。基実はこの流れに対抗するために権勢を強めつつあった平清盛の娘盛子を妻に迎えていたが、24歳で急死した。摂関の地位は幼児の基通ではなく基房が継いだものの、嫡流の荘園は基実の子・基通が継ぐという前提で、盛子が相続して清盛の管轄下に置かれることとなった[13]
近衛家と九条家の分裂

しかし、治承3年(1179年)に盛子が没すると、後白河法皇はこの所領を基通に渡さず、高倉天皇の管理下に移そうとした[14][15]。これを受けて清盛はクーデターを起こし、法皇を幽閉するとともに基房を解官した(治承三年の政変[16]。基房は源義仲と組んで子の師家を摂政に就けて復権を図るも、源義経によって義仲が破れたためまたも失脚した。基通は平家から離れ、後白河に接近したことでその地位を固めた。

しかし平氏滅亡後、後白河が義経による源頼朝追討を支援したことで法皇に近い基通は失脚し、基実・基房の弟兼実が頼朝の支持を受けて関白となった。しかし頼朝は娘の大姫を入内させようとし、源通親と組んで兼実父子を失脚に追い込み、基通を関白に復帰させた(建久七年の政変[17]。基実・基通の家系は「近衛家」と呼ばれ、兼実の家系は「九条家」と呼ばれた。また基房の家系は「松殿家」と呼ばれる。

建仁2年(1202年)、後鳥羽上皇は兼実の子九条良経を摂政に任じ、また建永元年(1206年)には基通の子近衛家実を摂政に任じた。さらに建保6年(1218年)には良経の外孫が皇太子となり(仲恭天皇)、摂関家は近衛家と九条家の2つに分立することが明らかとなった[17]

       藤原忠通
御堂流)         

                      
             
  近衛基実
近衛家)  松殿基房
松殿家)  九条兼実


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