援?ルート(えんしょうルート)は、日中戦争(支那事変)における大日本帝国と中華民国国民政府の対立の際、主にイギリス、アメリカ、ソ連が国民政府を軍事援助するために用いた輸送路のことである。 名前の由来は「(国民政府指導者の)?介石を援助するためのルート」。国民政府は英米ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は日中戦争勃発から第二次世界大戦の終戦までの長期間にわたり、100万以上の兵力を満洲国を含む中国大陸に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。 太平洋戦争の開戦は、中華民国の原動力である援助物資の輸送路である援?ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。現在の日本では、単に「援?ルート」と言った場合、後述の「ビルマルート」を想定していることが多い。 援?ルートの経路は、日中戦争の開戦から太平洋戦争の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。
概要
経路ビルマ公路の空撮画像山脈を越えるレド公路の空撮画像ビルマ公路・レド公路・ハンプ空路のルート図
香港からのルートは、当時イギリスが植民地支配していた香港に陸揚げされた物資を鉄道や珠江の水運を利用して、中国大陸内陸部に運ぶ輸送路だが、1938年10月に広州が日本軍に占領されると遮断された。
仏印ルートは、当時フランスの植民地であったインドシナ西部のハイフォンに陸揚げされた物資を昆明まで鉄道で輸送するものであったが、1940年にフランスがドイツに敗北し、ヴィシー政権が成立した後の同年に行われた日本軍の北部仏印進駐により遮断された。
ソ連からのルートは、他のルートと同じく重要なものであったが、1941年に独ソ戦が開始されるとソ連軍はドイツとの戦いに多くの物資を振り分けたために中華民国を支援する余裕はなく、またこのルートを通じた援助を続けることで、同年に日ソ中立条約を結んだ日本を刺激することを恐れたため、物資の供給を取りやめた。
ビルマルートは、新旧2つの陸路と1つの空路があり、当時イギリスが植民地支配していたビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資をラシオ(シャン州北部の町)までイギリスが所有、運営していた鉄道で運び、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路(ビルマ公路:Burma Road