「楊州市」とは異なります。
揚州市(ようしゅう/ヤンヂョウ-し、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Yangzh?u)は、中華人民共和国江蘇省に位置する地級市。本来「楊州」と書かれ、漢代に置かれた13州の一つであった。それが唐代に表記を「揚州」と改められた。 揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。現在の江蘇省全体よりも広く、江南(揚子江の南部)の広大な地域をも含んでおり、魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域であった。 楊州は北に徐州、豫州と接し、西は荊州、南は交州に接していた。楊州は三国時代、呉の孫策・孫権によって支配された土地である。楊州は南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中した。このため、三国時代の呉では戦争が相次いで人口不足に陥り、兵力が減少して国が滅亡する一因を成した。しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としている。 漢字の偏としての「木」と「?」は行書ではほとんど区別がつかず、よく混同されるが、「楊」と「揚」の両方が用いられた時代も長い。「揚」の字が現れるものとして古いものには『禹貢』という書や、中国最古の類語辞書ともいわれる漢代の『爾雅』などがある。「揚」の字に統一されたのは唐代のことである。唐代の途中で、「?州」や「?州」の名に改められた時期があるが、ほどなくして「揚州」に戻っている。 隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている。 唐代にはアラブ人やペルシャ人が訪れて、すでに国際港としての位置づけになって交易が発展したが、安史の乱(755年-763年)の混乱で、760年に田神功がペルシア人やイスラム商人を虐殺する揚州大虐殺が起こり、アラブ人やペルシャ人との貿易の中心は泉州や広州に移った。 明代以降は、現在の江蘇省の東部を中心とした塩田からとれる塩の集積地としても重要な位置をしめ、この地に豪商を産み、文化の花を開かせる基礎となった。明末期の清・南明戦争では1645年に80万人が犠牲者となった揚州大虐殺が起こった[1]。 清代の揚州八怪を初めとする、文人を多く輩出しており、揚劇や書画、盆景、料理といった、中国文化の上でも重要な位置を占める。 市内にある大明寺は、鑑真和尚が唐代に日本に来る前にいた寺である。 揚州市が置かれたのは新中国建設の1949年で、1983年には地級市に昇格している。 江蘇省の省都である南京市とは高速道路と鉄道で結ばれているが、鉄道の運行本数はまだ少なく駅も市の中心地から離れた場所にある。そのため、上海などの都市からは、北京?南京?上海を結ぶ鉄道(京滬線)が通る鎮江からフェリーで揚子江(長江)を渡ってくることが多い。鎮江と揚州を結ぶ(潤揚大橋 市中心部にある観光地として、痩西湖 3市轄区・2県級市・1県を管轄下に置く。 揚州市の地図 この節の出典[2][3]
歴史
歴史的地名としての楊州
揚州への改称
都市名としての揚州
現代の揚州市
行政区画
市轄区:
?江区・広陵区・江都区
県級市:
儀徴市・高郵市
県:
宝応県
広陵区?江区江都区宝応県儀徴市高郵市
年表
蘇北行署区揚州専区
1949年10月1日 - 中華人民共和国蘇北行署区
1949年12月 - 六合県が南京市に編入。(1市6県)
1950年1月11日 - ?潼県が興化県、泰州専区泰県
1950年1月 - 南京市六合県を編入。(1市6県)
1950年2月6日 - 揚州専区が泰州専区と合併し、新制の泰州専区の発足により消滅。
蘇北行署区揚州市
1950年8月8日 - 泰州専区揚州県が地級市の揚州市に昇格。(1市)
1952年11月15日 - 江蘇省の成立により、江蘇省揚州市となる。
江蘇省揚州市(第1次)
1953年2月6日 - 揚州市が揚州専区に編入。
江蘇省揚州地区
1953年2月6日 - 泰州専区が揚州専区に改称。(2市10県)
揚州市を編入。揚州市が県級市に降格。
1953年6月 (2市10県)
南京市八区の一部が六合県に編入。
六合県の一部が南京市大廠鎮に編入。