「アドミラル」はこの項目へ転送されています。スポーツ用品メーカーについては「アドミラルフットウェア」をご覧ください。
マシュー・ペリー提督(海軍代将)
提督(ていとく、英語: admiral)は、海軍や沿岸警備隊の将官、代将。狭義には海軍大将(full admiral)の意。
一般に陸軍、空軍、海兵隊の将官、准将は将軍(general)と呼ぶ[注釈 1]。また、海軍将官を将軍と呼ぶこともある(「上村将軍」「船乗り将軍」と呼ばれた上村彦之丞など)。また、しばしば誤用されるが植民地総督などの総督とは別の語である。
概要「提督 (清朝)」も参照
もともとは清朝の武官で、緑営の最高責任者だった12人の陸路提督と3人の水師提督の総称である[注釈 2]。
上記の水師提督から転じて、艦隊の総司令官の呼称。嘉永6年(1853年)に浦賀沖に来航したマシュー・ペリー(日本来航当時の階級はアメリカ海軍代将)を「水師提督マツテウセベルリ」[3]と表現したのが語源である。
上記の艦隊の総司令官としての用法から、英語の Flag officer、Commodoreの訳語の一つ。海軍の将官である元帥、大将、中将 、少将、准将及び代将の総称又は敬称としての、英語のAdmiralの訳語[注釈 3]。将軍(General)と同様に提督(Admiral)には、海軍将官(Flag officer)という広義の意味と、海軍大将(full admiral)という狭義の意味の二つがある。
英呼称である“admiral”はアラビア語で「海の司令官」を意味するアミール・アルバール“am?r al-ba?r”に由来する。
日本では1871年(明治4年)から1876年(明治9年)まで制度上は提督の官職名が設けられたことがあるが発令した例は見つけられない。1871年(明治4年7月)の兵部省職員令では海軍提督府には提督各1人少将以上、副提督各1人大佐以上と定めたが[5]、翌1872年11月13日(明治5年10月13日)の海軍省官等表の欄外記注で提督・副提督・知港事は「時有テ之ヲ置ク」とされた[6] [7]。同年に提督府の職員を発令して[8] [9] [10]翌1873年(明治6年)に海軍省内へ提督府を据え仮庁とし[11] [12]、1876年(明治9年)8月には「提督府」を「鎮守府」とした[13]。
著名な提督
日本
東郷平八郎:日露戦争時の連合艦隊司令長官。日本海海戦でロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃破。元帥海軍大将。
山本五十六:第二次世界大戦時の連合艦隊司令長官。元帥海軍大将。
世界
フランシス・ドレーク - 16世紀イギリス。世界一周、ホーキンスと共にスペインの無敵艦隊を撃破。
ジョン・ホーキンス - 16世紀イギリス。ドレークと共にスペインの無敵艦隊を撃破。
ミヒール・デ・ロイテル: 17世紀オランダ。英蘭戦争でイギリス艦隊と交戦。
マールテン・トロンプ : 17世紀オランダ。同上。
ホレーショ・ネルソン: 18世紀イギリス。ナポレオン戦争を戦った英国海軍の提督。トラファルガーの海戦で海上を制覇する。
ジョン・アーバスノット・フィッシャー:20世紀イギリス。弩級戦艦や巡洋戦艦、駆逐艦などの開発を推し進めたほか、艦艇燃料の石炭から石油への転換など、現代海軍の技術的基礎を作り上げた。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 明治5年の海軍省刊本である英国海軍官名録では、海兵隊についても、砲兵は General に水兵砲軍提督、Liutenant general に水兵砲軍亞提督、Major general に水兵砲軍准提督を充て、軽歩兵は General に水兵軽歩軍提督、Liutenant general に水兵軽歩軍亞提督、Major general に水兵軽歩軍准提督を充てている[1]。
^ 古来中国語の意味としての「提督」はもともと「全体を統轄して取り締まること」の意味であり近世以降は官職名として知られている。日中両言語における同義部分がある他に日本語の場合はさらに独自の意味を持ち「海軍の司令官」の意味で使用し、中国語には見られない「提督」を「海軍の司令官」の呼びかけの意味も強調されている[2]。
^ 明治5年の海軍省刊本である英国海軍官名録では、Admiral に水師提督、Vice Admiral に水師亞提督、Real Admiral に水師准提督、Commodore に代理提督を充てている[4]。
出典^ 国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:004(第12画像目)
^ 仇子揚 2019, pp. 88?89, 附録72.
^ 「合衆國水師提督口上書」より。
^ 国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:004(第2画像目)
^ 内閣官報局 編「兵部省第57 兵部省職員令、官位相当表、兵部省陸軍部内条例書(7月)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、714-716頁。NDLJP:787951/394