推古天皇
『推古天皇像』(部分)
土佐光芳 画・叡福寺 蔵
第33代天皇
在位期間
593年1月15日 - 628年4月15日
崇峻天皇5年12月8日 - 推古天皇36年3月7日
時代飛鳥時代
先代崇峻天皇
次代舒明天皇
誕生554年5月21日(欽明天皇15年乙巳朔癸丑)
崩御628年4月15日(推古天皇36年3月7日)
小墾田宮
陵所大野岡上→磯長山田陵(科長大陵)
漢風諡号推古天皇
和風諡号豊御食炊屋姫天皇
諱額田部
別称豊御食炊屋姫尊
豊御食炊屋比売命
炊屋姫尊
小治田大宮治天下大王天皇(法隆寺金堂薬師如来像光背銘)
父親欽明天皇
母親蘇我堅塩媛
子女菟道貝蛸皇女
竹田皇子
小墾田皇女
??守皇女
推古天皇
第30代天皇后
在位期間
576年4月23日 - 585年9月15日
敏達天皇5年3月10日 - 敏達天皇14年8月15日
皇后576年4月23日(敏達天皇5年3月10日)(大后)
配偶者敏達天皇
結婚571年(欽明天皇32年)
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推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日〈欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉[注 1][注 2])は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。
日本史上最初の女帝とされる[注 3]。欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれ、諱は額田部王(ぬかたべ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)である。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる[注 4]。
成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。
彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝との外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子(聖徳太子[注 5])を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)[2]。
来歴
出自と背景天皇系図 26?37代
後に推古天皇となる額田部(ぬかたべ)皇女(王)は欽明天皇と大臣の蘇我稲目の娘、堅塩媛との間に生まれた。彼女の系譜を伝えるのは『日本書紀』と『古事記』であり、『日本書紀』541年(欽明天皇2年)3月の立妃記事によれば堅塩媛は七男六女を産み、額田部王はその中で四番目の子であった[3]。兄弟の数と額田部王の出生順は『古事記』の系譜でも同様である[4]。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟、蘇我馬子は母方の叔父であった。
諱は額田部(ぬかたべ)である。6世紀後半から7世紀にかけて、天皇(大王)の子は男女の別なく「王(みこ)」と称されており、「皇子(みこ)」号が成立するのは天武朝(7世紀後半)においてである[5][6]。『古事記』では古い記法が保存されており「額田部王」と記載されている[6]。持統朝(7世紀末から8世紀初頭)には、「皇子(みこ)」「皇女(ひめみこ)」の書き分けが成立し、『日本書紀』では推古朝を含む過去の時代までこの書き分けを遡って適用しているため「額田部皇女」と書かれている[6]。和風諡号は豊御食炊屋姫尊である[注 6]。とも称される。現代の学者が推古天皇に言及する際には、利便性を重視して漢風諡号の「推古」を用いる場合や、「額田部[2]」「額田部王[2]」「額田部王女[7]」「豊御食炊屋姫[7]」「炊屋姫[8]」など、名前の取り扱いに関する方針や文脈によって様々に書かれる。
571年(欽明32年)、額田部は18歳で異母兄である敏達天皇のキサキとなった(この時点では敏達天皇の即位前である)[9][注 7]。『日本書紀』の記録では、575年(敏達4年)に息長真手王の娘広姫を皇后に立てたが、同年中に広姫が崩御し翌年に額田部が皇后となったとされる。ただし、日本において「皇后」という地位が確立されるのは7世紀末のことであり、実際には額田部が生きた時代に「皇后」や「夫人」といった天皇のキサキたちの序列が明確に存在していたわけではない[10][11]。
『日本書紀』によれば、額田部は敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)・竹田皇子・小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)・??守皇女・尾張皇子(聖徳太子妃の橘大郎女の父)・田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)・桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)の2男5女を儲けた[10][注 8]。
585年5月(『日本書紀』による。『古事記』では584年4月)に敏達天皇が崩御した。その直後から額田部や蘇我馬子、物部守屋などの間で激しい権力闘争が争われた[12]。