掛川藩
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掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した。政庁は掛川城に置かれた。
歴史

掛川は古くは懸川と書かれた。戦国時代にこの地を支配していたのは今川氏であったが、時の当主・今川義元織田信長によって桶狭間の戦いで討たれ、跡を継いだ今川氏真の力不足もあって今川氏が衰退すると、それまで今川氏の同盟者であった武田信玄が同盟を破棄して侵攻してきた。氏真は駿府から逃亡し、今川氏の忠臣と言われた朝比奈泰朝が守る掛川城に立て籠もって抵抗したが、徳川家康の攻撃を受けて開城を余儀なくされた。とはいえ、武田・徳川の連合軍相手に長く持ちこたえた掛川城の重要性は大きく、家康は譜代の家臣である石川家成石川康通父子を入れて守らせている。

小田原征伐後、家康が関東に加増移封されると、掛川には豊臣氏の家臣・山内一豊が入った。一豊は豊臣秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、自らの居城である掛川城を真先に家康に提供し、家康に与することを正式に表明してその歓心を得た。このため戦後、その功績を賞されて一豊は土佐国に加増移封され、掛川から高知に遷った。

慶長6年(1601年)2月、下総国小南から家康の異父弟・松平定勝が3万石で入るが、定勝は慶長12年(1607年)4月29日に伏見城代となって山城伏見藩に移封されたため、掛川の地は次男の松平定行が継いだ。なお、長男の松平定吉(定友)は慶長8年(1603年)に自害し、定勝はこれを弔うために遠江塚を築いている。定行は元和3年(1617年)7月、伊勢桑名藩に移され、代わって安藤直次が2万8,000石で入った。しかし家康の子・徳川頼宣紀伊和歌山藩に移されると、直次はその御附家老という経緯から、紀伊田辺に移封されることとなった。

代わって松平定綱常陸下妻藩から3万石で入ったが、元和9年(1623年)に山城淀藩に移され、代わって駿河大納言徳川忠長の附家老・朝倉宣正が2万6,000石で入った。しかし寛永9年(1632年)、忠長が幕命によって改易されると連座して改易され、大和郡山藩に流罪に処せられた。

翌年2月3日、常陸国より青山幸成が2万6,000石で入る。後に幸成は3万3,000石に加増されたが、寛永12年(1635年)に摂津尼崎藩に移され、代わって駿河田中藩より松平忠重が4万石で入った。寛永16年(1639年)2月12日に忠重は死去し、後を松平忠倶が継いだが、3月には信濃飯山藩に移され、代わって本多忠義本多忠勝の孫)が播磨国より7万石で入った。しかし正保元年(1644年)3月、越後村上藩に移された。

代わって松平忠晴が駿河田中藩より3万石で入ったが、慶安元年(1648年)閏正月には丹波亀山藩に移された。代わって田中藩より北条氏重が3万石で入ったが、万治元年(1658年)10月1日に氏重は死去。嗣子がなかったため、北条氏は改易となった。

翌年正月28日、三河西尾藩より井伊直好が3万5,000石で入る。井伊氏はもともと遠江国井伊谷国衆であったため、かつての本拠に近い所へ入部した形になる。直好は寛文12年(1672年)正月6日に死去し、跡を継いだ井伊直武元禄7年(1694年)6月8日に死去。その跡を継いだのは井伊直朝であるが、宝永2年(1705年)に直朝は発狂して参勤交代をも怠る有様となった。本来なら改易されてもおかしくはなかったが、幕府は祖先である井伊直政の功績などを配慮して、本家の彦根藩から井伊直矩が養嗣子として迎えられて跡を継ぐことで存続を許された。ただし同年12月3日、直矩は養父発狂を名目に越後与板藩に移封を命じられた。これにより井伊家分家は城主から無城大名へ降格させられた。

代わって信濃飯山藩より松平忠喬が4万石で入るが、正徳元年(1711年)に摂津尼崎藩へ移され、代わって武蔵岩槻藩より小笠原長煕が6万石で入る。長煕は元文4年(1739年)4月21日に隠居し、跡を継いだ小笠原長庸延享元年(1744年)7月6日に死去。そしてその跡を継いだ小笠原長恭延享3年(1746年)9月、陸奥棚倉藩へ移封を命じられた。

代わって上野館林藩より5万石で太田資俊が入り、ようやく藩主家が安定した。以後、藩主は太田家により幕末まで7代にわたって続き、慶応4年(1868年)9月、最後の藩主である太田資美上総柴山藩(松尾藩)に移ることで掛川藩は廃藩となり、その所領は徳川家達の駿河府中藩領となった。
藩政

太田家が入るまで激しく藩主家の交代が続いたため、藩政に見るべきところは太田家に至るまではほとんどないが、主要な点だけを述べておく。

松平定勝には、嫡男に松平定吉がいた。定吉は智勇兼備で特に弓術に優れ、性格においても温厚篤実なことから家臣団の信頼も厚かった。しかしある日、徳川家康が定勝の屋敷を訪れたときのことである。定吉は家康に自分の力量を見てもらおうと、空に飛翔していた一羽の鷲に向けて矢を放ち、これを見事に命中させた。家臣団はさすがに武芸達者と賞賛したが、家康はこれを褒めるどころか、家臣など多くの人がいる前でこのような軽率なことをすべきではない、成功すればいいが、失敗すれば物笑いの種になると叱りつけた。定吉は家康に嫌われていたらしいが、19歳であった定吉の精神に大きなショックを与え、このまま父の跡を継いでも嫌われている自分ではしようがないとまで思い、自殺した。このとき、定吉の後を追って多くの家臣が殉死している。定勝は期待していた我が子の死を悲しみ、その菩提を弔うために遠江塚を築いたと言われている。この遠江塚は、江戸時代を通じて主に若者の信仰を集めていたと言われている。

小笠原長煕は、幕命により大井川下流域の治水工事、新田開発などで功績を挙げている。

その後、長庸を経て小笠原長恭が棚倉へ懲罰的な移封を命じられた理由であるが、これが一盗賊の横行が理由だった。長恭の時代、遠州では浜嶋庄兵衛こと日本の左衛門という盗賊がいて、東海地方を中心とした急ぎばたらきを働いていた。延享3年(1746年)には掛川城下の大池村惣右衛門宅に押し入って1000両を強奪したほどである。ところがこれに対し、長恭は何の対策も取らなかった。このため、領民は藩主では駄目だと考えて幕府に助けを求めた。延享4年(1747年)に急ぎばたらきの盗賊の頭・浜嶋は京都で捕らえられる(浜嶋は自首したとも言われている)が、それまでに何件の盗めを働き、どれだけの被害が出たことかわからないほどであった。これらは全て、藩主の長恭が的確な処置を取らなかったためということになり、幕府は懲罰的な移封を命じた。

そして、太田家が入って藩主家が安定する。太田家はそれまで何度も藩主家が替わって藩政が不安定なことを考慮し、まずは藩政の安定化を第一とした。警察力の強化と厳罰主義などがそれである。これは前代の小笠原家の時代に盗賊が横行したことも考慮したのであろうが、あまりに厳罰がすぎたため、領民からは評判が悪かった。

第2代藩主・太田資愛は掛川城内に藩校・北門書院(のち徳造書院、教養館)を築いた。また、斎田茂先や山本忠英らを登用して『掛川志稿』という首巻1巻・本文14巻からなる掛川の地理や古墳についてまとめ上げた地誌を編纂し、掛川藩の文化発展に尽くした。

一方、太田家は民政においては「地方御用達」を設置する。これは領民の中から有能な人物を登用し、それらの人物によって藩や村方三役との調整、百姓一揆との交渉を取り持つなどの役目を果たすなど、藩政に大きく参与した役職である。また、掛川藩は灌漑用水を溜池に依存することから、旱魃が続いてたびたび凶作・飢饉が相次いだ。第5代藩主・太田資始はこのような事態を打開するため、松の木の皮を食用にする方法を採用した「松皮製造法」を制定する。これによって飢饉における食糧不足を防ごうとしたのである。

第6代藩主・太田資功二宮尊徳の弟子に当たる安居院庄七を登用し、藩政改革を行なった。


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