掛川城
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静岡県
掛川城天守(木造復元)
別名懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城
城郭構造平山城
天守構造複合式望楼型3重4階(1621年再建 非現存
、1996年 木造復元)
築城主朝比奈泰煕
築城年文明年間(1469年〜1487年)
主な改修者山内一豊
主な城主朝比奈氏山内氏太田氏石川氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構二の丸御殿・太鼓櫓(移築)・大手門番所(移築)・石垣・土塁・堀(いずれも一部)、大手ニの門(移築)
指定文化財国の重要文化財(二の丸御殿、大手ニの門)
再建造物天守・門・土塀
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度46分31.5秒 東経138度0分53.04秒 / 北緯34.775417度 東経138.0147333度 / 34.775417; 138.0147333座標: 北緯34度46分31.5秒 東経138度0分53.04秒 / 北緯34.775417度 東経138.0147333度 / 34.775417; 138.0147333
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天守及び太鼓櫓

掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(静岡県掛川市掛川)にあった日本の城
概要

戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。

本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。明治以降は、廃城令によって廃城処分とされ建物の一部を残して撤去され、道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。現在は、1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている。城跡の整備が城下に至り、電柱の埋設など都市景観の配慮に及んだ。予算の関係でこれ以上の木造復元計画はない。
歴史・沿革
戦国時代

室町時代中期の文明1469年 - 1487年)年間に大名今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている[1]。当初は龍頭山より北東にある子角山に築かれており、龍頭山の城は1513年に新たに築城されたものである。

そのまま朝比奈氏が城代を務め、泰煕の子孫である朝比奈泰能朝比奈泰朝が代々城を預かった。ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主君今川氏真甲斐国武田信玄三河国徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、本拠地たる駿府館を捨てて泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。このため掛川城は徳川勢の包囲に遭ったが、泰朝はよく城を守ったためなかなか落城しなかった。この際、徳川勢はかつて掛川城があった子角山を拠点としたという説がある。しかし、兵数の差もあって和議で氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。

氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成康通親子が入った。間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。


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