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排日、排日運動(はいにち、はいにちうんどう)とは、日本国外の国家において日本人を排除しようという概念。これは主に日米関係に関する事柄で使われる言葉であり、戦前には排日移民法が制定されるなど米国などの国家ぐるみで排日活動が行われたという過去がある。 アメリカにおける日本人移民排斥は,カリフォルニア州を中心とする太平洋岸に4000人程度の日本人が移住しているにすぎない1890年代にすでに始まっていた[1]。主な原因は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}人種差別と経済的理由である[独自研究?]。「:en:Anti-Japanese sentiment in the United States
アメリカにおける排日運動
年譜
1870年:帰化できる要件を、「アフリカ系」まで含める帰化法の改正Naturalization Act of 1870(英語版)が制定されるが、この際チャールズ・サムナーが提案した、出身の要件を廃止する事は退けられる[2]。
1882年:中国人排斥法(東洋系移民に対する差別法の端緒)。アメリカへ入国できなくなった中国人に代わって、日本人移民が増え始める。
1900年:カリフォルニア州で日系人の漁業禁止法が提案される。
1903年:日本メキシコ労働組合(アメリカで働く両国民合同の組合)の全米労働者連盟への支部申請に対し、同連盟から加盟の条件として日本人を排除することが要求されたが、同組合のメキシコ側代表がそれを飲まなかったため、申請が却下される。
1904年:中国人排斥法に日本人と朝鮮人を加えるよう動議される。
1905年:日露戦争終結。有色人種の東洋人である日本が西洋人に勝利したことにより、以前からくすぶっていた黄禍論が西洋社会を席巻する。アジア人排斥同盟が結成される。
1906年:日本を仮想敵国としたオレンジ計画始まる。サンフランシスコ教育委員会(英語版)が中国人と同様に、日本人と朝鮮人にも学生隔離命令(英語版)(白人から離し、集中隔離する差別措置)を出す。
1907年:サンフランシスコで反日暴動。日本人移住者が多かった同市とロサンゼルスは排日の本場となり、漁業禁止法や修学拒否などさまざまな日系人排斥運動が勃発する。メキシコ,ハワイ,カナダ在住日本人のアメリカ本土入国禁止[要出典]。日米紳士協約調印[3][4]。
1908年:日米紳士協約により、日本はごく少数を除き米国への移民を禁止、アメリカ側は排日法案を作らないことを約束。同年秋、世界一周を名目に、アメリカの海軍力を誇示するため艦隊グレート・ホワイト・フリートで日本に来航。
1913年:紳士協約を破り、アメリカで排日土地法が発令。
1918年:第一次大戦終結により大量の兵士が帰国し、底辺の仕事を奪い合うことになる新移民、とくに東洋人への排斥運動がさらに激化する。
1920年:さらに厳しい排日土地法発令。
1921年:カリフォルニア州で排日運動が激化し、日本人農業労働者150人が放逐される[5]。
1922年:帰化資格のある外国人男性と結婚したアメリカ人の市民権を保障する法律Cable Act(英語版)成立。白人、アフリカ系以外の帰化資格のない外国人との婚姻では市民権剥奪[6][7]。
1924年:排日移民法成立。WASP以外の移民を制限するための移民法のため、カソリックやユダヤ教の多い東・南欧や南米などからの移民も含まれていたが、東洋人のみを帰化不能外国人に指定したうえ、日本人移民が本格化する前の1890年の国別移民人口比を敢えて基にして移民数を制限するなど、排日色が明白であったため、日本政府は抗議の提案書を米政府に提出し交渉を続けたが退けられた(この国別割当法は1965年まで続いた)。
1939年:第二次世界大戦勃発。
1941年:中国人排斥法撤廃。
1942年:日系人の強制収容始まる。
1945年:第二次世界大戦終結。
1946年:日系人の強制収容解かれる。
1952年:移民国籍法成立。帰化要件から出身地が独立以来初めて除かれる。
以降については、アメリカ合衆国の人種差別を参照。
脚注[脚注の使い方]^ ⇒排日運動世界大百科事典 第2版
^ “Naturalization Act Of 1870”. en:encyclopedia.com. 2020年11月8日閲覧。