掌の小説
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掌の小説
訳題Palm-of-the-Hand Stories
作者川端康成
日本
言語日本語
ジャンル掌編小説
発表形態掌編作品集
刊本情報
出版元新潮社
出版年月日1971年3月15日
装画平山郁夫
総ページ数644
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『掌の小説』(たなごころのしょうせつ)は、川端康成掌編小説集。「てのひらのしょうせつ」とルビが付されている場合もあるが[1]、川端本人は「たなごころのしょうせつ」としているため、雅馴を尊ぶその読み方が尊重されている[2][3][注釈 1]

川端が20代の頃から約40年間にわたって書き続けてきた掌編小説は「掌の小説」と総称されるようになり、最も短いもので原稿用紙1枚程度、最も長いものでも16枚ほどで、7枚くらいの長さの作品が多く、2枚から14枚に満たないものが大半を占めている[5][6]

執筆した掌の小説の総数は、1981年(昭和56年)10月刊行の全集では122篇であるが[7]、「油」「明月」なども掌の小説とする126篇[5]、「髪は長く」なども加えた128篇[6][8]、「竹の声桃の花」などを加えた130篇[9]、さらにその130篇に、分類の幅を広げ「雪国抄」や未発掘の作品などを加えた場合には148篇ほどになる[9][10][注釈 2]
『掌の小説』名称本

川端康成の掌編小説を収録した単行本はいくつか出版されたが、「掌の小説」という題名の単行本作品集は、1952年(昭和27年)8月に新潮社より新潮文庫版で刊行された『掌の小説百篇』(上・下巻)で、そこには上下巻合わせて100篇が収録された[11]

その後、1971年(昭和46年)3月15日に同じ新潮社より文庫版で『掌の小説』が刊行され、100篇を超える111篇が収録された[10]。そして川端死後の1989年(平成元年)5月の改版からは、1981年(昭和56年)10月刊行の最新の全集に準じて、11篇追加された122篇が収録された[12]

翻訳版は、レーン・ダンロップとJ・マーティン・ホルマン訳の英語(英題:Palm-of-the-Hand Stories)や、ロシア語(露題:Рассказы на ладони)、フランス語(仏語:Recits de la paume de la main)などで出版されている[13][14][15]
執筆・発表の推移

※川端康成の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

大正末期には掌編小説が流行し、川端のほかに岡田三郎武野藤介なども掌編を書いていたが永続せず、ひとり川端のみが書き続けて、「洗練された技法を必要とするこの形式によって、奇術師とよばれるほどの才能の花」を開かせたとされる[1]。また、『文藝時代』の同人の中でも川端が最も多くの掌編小説を書いていた[2]。掌編小説が流行していた当時、川端は以下のように〈掌篇〉の由来について語っていた[16]。掌篇小説とは、「文藝時代」が集録した新人諸氏の極めて短い小説に、中河与一氏が冠した名称である。中河氏は多分、嘗て「文藝春秋」に掲載された某氏(名を忘れた)の「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}掌(てのひら)に書いた小説」[注釈 3]から教へられてこの名称を得たのであらう。
この掌篇小説は、外にも二三の別名を持つてゐる。曰く、岡田三郎氏の「二十行小説」。曰く、中河与一氏の「十行小説」。曰く、武野藤介氏の「一枚小説」。そして一般には「コント」と云ふフランス名が通用してゐる。 ? 川端康成「掌篇小説の流行」[16]

川端は日本の掌編を「コント」と呼ぶのは〈多少の不満を感じる〉として〈自分が極めて短い小説を書いた場合にも、自分ではコントと呼ばないことにしてゐる〉と述べ[16]、〈極めて短い小説は日本で特殊な発達を遂げるであらう〉から、日本の名称として〈掌篇小説〉と呼ぶのがよいとした[16]。極めて短い小説は日本で特殊な発達を遂げるであらうと予想されるから、何とか日本の名を持たせてやりたい。(中略)フランス流のコントには主題の打ちどころ、材料の取扱ひ方、手法などに少々条件がある。現文壇の極めて短い小説は必ずしも皆が皆、その条件を満たしたものとは言へない。これらの点からも私は、極短い小説をコントと呼ぶことにも不満と窮屈とを感じる。
掌篇小説と呼ぶ方が楽である。そして極めて短い小説であり長篇小説の一部分的でなく、また小品文ではない短篇小説である、と云ふことの外は、何等の条件を設けない方がいい。 ? 川端康成「掌篇小説の流行」[16]

川端の掌編小説の初期の頃の35篇は、1926年(大正15年)6月15日に金星堂より刊行の処女作品集『感情装飾』に初収録された[17][5][18]。この『感情装飾』の目次には〈掌の小説三十六篇〉(実際には35篇のため36篇は誤り)とすでに銘打っていた[3]。その4年後の1930年(昭和5年)4月7日に新潮社より刊行の『僕の標本室』には、新作を加えた47篇が収録された[17][19]

それから8年後の1938年(昭和13年)7月19日には、改造社より刊行の『川端康成選集第1巻 掌の小説』に77篇が収録され、表題中では初めて「掌の小説」という語が付された[17][6][3]。その後、この選集から34篇を選んで収録した『短篇集』が砂子屋書房より翌1939年(昭和14年)11月に刊行され、30篇選んで収録した『一草一花』も青龍社より戦後の1948年(昭和23年)1月に刊行された[17]

その後、新たに執筆されて数が増えた掌の小説は、1952年(昭和27年)8月には新潮社より新潮文庫版で刊行の『掌の小説百篇』(上・下巻)に100篇が収録され、伊藤整の解説が付された[11][20]。川端存命中、最も多くの111篇をまとめて同時収録した作品集は、晩年の1971年(昭和46年)3月15日に新潮文庫で刊行された『掌の小説』である[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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