捷一号作戦
[Wikipedia|▼Menu]

捷号作戦(しょうごうさくせん)は、第二次世界大戦中に日本陸海軍が計画した比島・台湾・本土方面で基地航空部隊によって敵を要撃する作戦[1]。決戦方面によって一号から四号まで定められ、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けて1944年10月18日に捷一号作戦が発動された。
計画内容

1944年(昭和19年)6月、マリアナ沖海戦における日本海軍の敗戦でサイパン陥落は決定的となり、それは絶対国防圏の崩壊を意味していた。その結果、それまで後方要域の地位にあった本土、南西諸島、台湾、比島は最後の国防要域となり、大本営は新国防要域の防備を急速に強化し、同要域のいずれかの方面に敵が来攻した場合、陸海空戦力を結集して決戦するべく企図した。この作戦は「捷号作戦」と呼称され、捷一号(比島)、捷二号(台湾南西諸島)、捷三号(本州四国九州)、捷四号(北海道)の各作戦に区分された[2]

作戦の流れは、陸海の基地航空兵力によって敵艦隊を壊滅、第一機動艦隊はアメリカ軍機動部隊を牽制して北方に誘致し基地航空戦力と共に敵機動部隊攻撃に加わる。これらの航空作戦による間接支援を受けた戦艦を主力とする水上艦隊を攻略部隊攻撃に向かわせ、既に上陸を開始している場合は来攻地点に突撃させ艦砲射撃によって輸送船団や上陸軍に打撃を与え、陸軍がこれを殲滅するという作戦であり、陸海軍の完全な一致協力を前提としていた[3]

敵情判断に関しては、大本営陸海軍部の統一判断として「小笠原を経て沖縄ならびにハルマヘラを経て比島」であった[4]

「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」(7月24日上奏)の成案末期に、この作戦が戦勝の戦機を捕捉する決戦であることを象徴するため、「捷号作戦」と命名された[5]。「捷」の字は「戦いに勝つ」という意味を持つ[6]
陸軍

陸軍では、「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」を別冊にした大陸命第千八十一号を伝達し、これに基づき大陸指二千八十九号で捷号作戦の準備を命令した[7]。この命令で、南方軍総司令官、台湾軍司令官、防衛総司令官、第五方面軍司令官に決戦準備を概成し、爾後成るべく速やかに完整するように指示した。準備概成の目途は、比島方面決戦(捷一号作戦)、連絡圏域方面決戦(捷二号作戦)は8月末、本土(北海道を除く)方面決戦(捷三号作戦)、北東方面決戦(捷四号作戦)は10月末とした[8]

捷一号作戦は、参謀本部が南方軍参謀副長に手交した標記案によれば、「空海決戦は敵が比島のいずれに来攻するにかかわらず決行するも、地上決戦はルソンに限定する」とした点に特色があった[9]
海軍

海軍では、大海指第四百三十五号に基づいて連合艦隊は「聯合艦隊捷号作戦要領」を定め、捷号作戦の具体的要領を発令した。「聯合艦隊捷号作戦要領」は作戦の詳細を指示した別冊が現存せず、付令三で機密連合艦隊命令作第三九号、四〇号、四五号、五〇号が廃止されているため、それらに代わるべき内容があったと考えられる。三九号及び四〇号は1943年8月15日発令の「聯合艦隊作戦要領」及び「聯合艦隊第三段作戦命令」、四五号は四〇号の訂正、五〇号は潜水艦の配備標準に関するものである[10]。また、「聯合艦隊捷号作戦要領」は後に一部改訂された記録があるが、これも本文がなく不明である。「聯合艦隊捷号作戦要領」については、第二復員省(旧海軍省)において戦後まとめられた文書に言及されたものは残っている[11]

大海指第四百三十五号では、捷号作戦の呼称とその区分が伝達された。作戦区分と予期決戦方面は、捷一号を比島方面、捷二号を九州南部・南西諸島及び台湾方面、捷三号を本州・四国・九州方面及び情況に依り小笠原諸島、捷四号を北海道方面とした[12]

軍令部では捷号作戦必成を期すため、従来見られなかった各種の特別措置を実施した。それは
連合艦隊司令長官の全海軍部隊の統一指揮

それまで連合艦隊と同じく天皇に直接隷属する立場であった支那方面艦隊海上護衛総隊や各鎮守府、警備府を連合艦隊司令長官の指揮下に置くことで、指揮権の一元化を図った[13]


基地航空隊の空地分離方式の採用

それまで海上機動部隊所属の航空隊に採用されていた空地分離方式を基地航空隊にも採用した[14]


必死奇襲戦法の採用、特攻兵器の開発

3月頃より内密に進められていた水上、水中各種特殊攻撃兵器(後の震洋回天桜花など)の研究開発を本格化する。但し実際にレイテ沖海戦で行われた神風特別攻撃の採用ではなく、専用の特攻兵器の開発とその運用法の研究を始めたという意味である[15]


対潜水艦専門部隊の創設

1943年(昭和18年)頃より本格化し始めたアメリカ潜水艦による通商破壊で、損害は肥大化し、マリアナ沖海戦時には軍艦艇ですら損害を被るようになっていた。そのためサイパンの戦いに巻き込まれて司令部が全滅した第三水雷戦隊を解隊し、対潜機動部隊第三十一戦隊を設立した。その構成は以下の通り[16]

1944年8月20日時点での編制

軽巡洋艦:五十鈴(旗艦)

第三十駆逐隊:卯月夕月秋風皐月夕凪

第四十三駆逐隊:

海防艦:干珠満珠笠戸三宅第22号



以上4点であった。

また、第二復員省の纏めたものに基地航空部隊のみの捷号作戦発動のあったことが明記されている[17]。これは大本営の捷号作戦方面決定の指示がなくても連合艦隊司令長官の権限で発令できるよう特に規定されたもので、当時の連合艦隊参謀副長・高田利種少将も戦後のGHQによる聞き取り調査で、その様な規定が盛り込まれていたと証言している[18]

これは大本営の決定以前に敵機動部隊を捕捉殲滅できる好機を連合艦隊が得る場合も想定し、悪戯に大本営の指令を待って好機を逸する様なことのないよう盛り込まれたものではあるが、一歩運用を間違えると大本営の捷号作戦基本方針を根底から覆すことにもなりかねない、極めて危うい二面性をも孕んでいた。「陸海軍中央協定」で陸海軍の航空戦力を統合集中して来航する敵を捕捉殲滅しようと取り決めたのに、海軍が捷号作戦を単独発動する様なことがあっては戦力の統合発揮が不可能となる可能性が十分予測されるからである。しかしこの基地航空部隊に関しては連合艦隊と軍令部の協議のもとに、連合艦隊司令長官が捷号作戦を発動できるという規定は、基地航空部隊が海軍戦力の中核であるだけに、事実上海軍単独で作戦を発動できることとなり、これが10月12日から始まった台湾沖航空戦で実際に行われ、中央協定を無視する形で海軍は独自に基地航空部隊による捷一号二号作戦を発令(連合艦隊電令作第342号「基地航空部隊捷一号二号作戦発動」)し、その当否は別として結果的に海軍の行動が裏目に出て基地航空隊は戦果を殆ど上げ得ぬまま壊滅し、捷号作戦の運用に重大な支障をきたすこととなった[19]
背景

1944年(昭和19年)8月初頭、海軍部はアメリカ軍の正面兵力を航空機約9,300機(空母航空兵力1450機を含む)、空母21?25隻、補助空母約40?50隻、地上兵力約47個師団と推定していた。一方の日本側は8月中旬を目途に、航空機は陸海軍合わせて約3,000機、空母航空兵力で250機が整備可能と予測され、空母9隻(年内竣工予定の3隻を含む)、補助空母3隻、地上兵力約100個師団(うち戦車師団4)の兵力があった[20]あ号作戦 (1944年)で壊滅的打撃を受けた日本海軍の次期決戦における航空戦備の予定は、飛行機と搭乗員の充足可能上限まで捻出したものであったが、飛行機の生産に問題があった[21]。1944年4月以降、生産の予定と実績の差は増大の一途をたどっており、生産計画や予定は不可能なのが明らかになっており、あ号作戦直後の7月と9月に急激な減産をきたした[22]。搭乗員の養成はあ号作戦での大損耗にも拘わらず、前年来の搭乗員急速養成がようやく実を結び始め、人数では所要員数を充足することが可能となっていた。しかし、分隊長以上の飛行幹部が著しく不足しており、士官搭乗員のほとんどが若年搭乗員の隊付尉官で、隊付尉官はAからDの4段階評価における「D」である「要錬成者」が9割を占めており、その内訳は、A技量者164名、B技量者285名、C技量者330名、D技量者3885名となっていた[23]

昭和18年12月以降の月間飛行機生産状況[24]年月合計生産予定数合計生産実数実用機生産予定数実用機生産実数練習機並輸送機生産予定数練習機並輸送機生産実数
昭和18年12月10788411053818238235
昭和19年1月11619101054800254251
昭和19年2月11118451023736287266
昭和19年3月12299481188861327281
昭和19年4月12409281236874362312
昭和19年5月13469951200831369351
昭和19年6月146210811252866386381
昭和19年7月141211091120802318303
昭和19年8月160412491308977296272
昭和19年9月139410051101770293235


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:175 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef