捜索連隊
[Wikipedia|▼Menu]

捜索連隊(そうさくれんたい、搜索聯隊)は、大日本帝国陸軍部隊編制連隊)の一種で、戦闘斥候を任務とする機動偵察部隊である。また、「連隊」ではなく捜索隊(そうさくたい、搜索隊)と称する類似の編制も存在しており、ともに本項で詳述する。帝国陸軍における軍隊符号は捜索連隊・捜索隊ともにSO。

第二次世界大戦期に旧来の騎兵連隊に替わる部隊として、各師団隷下に設置された。同時期の列強における機械化騎兵連隊・装甲偵察大隊、陸上自衛隊機甲科偵察隊などに相当する。
編成の経緯「騎兵連隊#大日本帝国陸軍」も参照

陸戦において機動力を生かしての偵察や伝令襲撃、掃射任務などを担当する兵種としては、古くから騎兵が用いられており陸軍の花形であった。しかし、日露戦争第一次世界大戦では機関銃が本格的に運用され、機動力や白兵戦における攻撃力に優れるも防御力に劣る乗馬騎兵の戦闘能力に疑問がもたれるようになった。また、自動車の発達が急速に進んだこともあり、列強各国では騎兵部隊の自動車化・機械化が研究されるようになった。

日本陸軍においても、従来は各師団に騎兵連隊や騎兵大隊を設置して偵察や伝令任務を負わせていたが、諸外国に倣いその機械化の研究を進めるようになった。その研究の成果として、1937年(昭和12年)と翌1938年(昭和13年)に新設された師団のうち7個の隷下に、捜索隊(一般用語との混同を避けるため「師団捜索隊」とも呼称された)が編成された。これは、騎兵連隊・騎兵大隊が持っていた2個乗馬中隊のうち、1個中隊だけを装甲車中隊としたものである(詳細後述)。「捜索連隊(連隊)」と称されなかったのは、仮に連隊番号(隊号)を所属する師団番号と同じにした場合、既存騎兵連隊の連隊番号と一部重複するので、混乱を回避するためとされる[1]

その後、上記7個の師団捜索隊に続き、太平洋戦争大東亜戦争)開戦までの新設師団の多くには捜索連隊が編成された。さらに、既存の師団が持つ旧来の騎兵連隊の多くも、1940年(昭和15年)以降に順次捜索連隊へと改編された。その際、既存騎兵連隊の有していた軍旗(連隊旗)は奉還された。ただし、師団所属のすべての騎兵連隊が改編されたわけではなく、帝国陸軍の儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任にあたっていた近衛師団の近衛騎兵連隊(「近衛騎兵連隊」とは別に「近衛捜索連隊」が編成されている)や、騎兵第3連隊・騎兵第6連隊などは終戦時まで騎兵連隊として残っていた。なお、近衛騎兵連隊をはじめとして、中には騎兵連隊の名称のままでありながら戦車中隊を追加された例なども多数あった。また、戦車師団が誕生するとその編制には通常師団のものより強力な師団捜索隊が加えられた。
特色と限界

以上のようにして整備された捜索隊・捜索連隊は、編制内に装甲戦闘車両自動車化歩兵を持ち、機械化が遅れていた日本陸軍の中では特異な存在となった。特に装甲車中隊に配備された九二式重装甲車九四式軽装甲車九七式軽装甲車は、戦車兵以外の兵種が使うことができた唯一の装甲戦闘車両となり、本来の偵察任務を超えて攻撃任務にまで投入された。また、一応の諸兵科連合部隊となっていることから単独戦闘能力を期待され、師団主力から独立しての運用(挺進)が行われることがしばしばあったが、ノモンハン事件の戦例のように兵力の少なさや軽装甲車の非力さ、補給の限界から苦戦することも多かった。

太平洋戦争緒戦の南方作戦においては、その高い機動力を生かして師団の先頭に立ちビルマ攻略戦の戦例のように活躍することも多かった。しかし、中期以降の島嶼戦では機動力発揮の余地が少なく、軽装甲車の性能限界も明らかだったことから、師団主力が前線へ進出する際に分離されて残留することが多くなった[注釈 1]

そもそも捜索連隊は、野戦における攻勢作戦用の部隊であり、島嶼における防御戦、陣地戦には不向き、不要な部隊であった。これは、騎兵においても同様であり、既に日露戦争の旅順要塞戦においても、第3軍所属師団の騎兵連隊は、要塞戦の期間は抽出され他方面の任務に充当されていた。

そのため不要となった捜索連隊は次々に解隊されて、兵員は戦車部隊に振り替えられていった[注釈 2]。太平洋戦争中に新設された師団のほとんどは、歩兵大隊編制の丙師団だったり、連隊編制でも当初より捜索連隊を持たなかったりした。

捜索隊・捜索連隊の数は最大時には40隊を超えていたが、終戦時に残っていたのは23隊のみで、そのうち9隊は戦力喪失状態だった。
基本編制

捜索連隊は大隊結節を持たず兵力500名以下と連隊としては小規模であり、連隊長も歩兵連隊なら大佐であるところ、後期には少佐ということが多かった。各連隊ごとに編制の差が非常に大きく、しかも同一部隊でも時期によって変化が大きい。以下に掲げるのは基本編制類型である。太平洋戦争においては、軍隊輸送船への船積みの関係で縮小編制とされて出動することが多かった。




師団捜索隊 -1937?38年新設の警備師団(第15.第17.第21.第22.第23.第26.第27師団捜索隊).一部平時編成の乙編制常設師団の捜索連隊。

本部

乗馬中隊     - 通常の乗馬騎兵。

装甲車中隊

装甲車小隊   -  軽装甲車 5両。

乗車小隊   -  自動車化騎兵(乗用車 1両、自動貨車 4両)。




標準的な捜索連隊 -騎兵連隊から改編の甲編制常設師団の捜索連隊、30番台の新設(第32?第37)師団の捜索連隊。

本部

乗馬中隊  - 通常の乗馬騎兵。

乗車中隊  - 自動車化騎兵   (九五式小型乗用車.九四式六輪自動貨車など)。

装甲車中隊 - 軽装甲車両 5両(九四式軽装甲車.九七式軽装甲車)。



    - 同上、捜索第38.39連隊の場合。機甲力更に強化編制(馬匹廃止)。

本部

乗車中隊  - 自動車化騎兵   (九五式小型乗用車.九四式六輪自動貨車など)。

装甲車中隊 - 軽装甲車両 5両 (九四式軽装甲車)。

戦車中隊  - 軽戦車         (九五式軽戦車)。



関東軍特種演習で動員された標準的な在満 捜索連隊 - 捜索第8.第12.第19.第20連隊(捜索第1.第23連隊は馬匹廃止による自動車機動とし2コ乗車中隊編成。さらに捜索第23連隊は装甲車を2コ中隊編成に増強)[注釈 3]

本部

乗馬中隊 (2コ小隊.1コ機関銃小隊) - 乗馬騎兵。

乗車中隊 (3コ小隊)×2       - 自動車化騎兵  

装甲車中隊(2コ小隊)          - 軽装甲車両 7両(九七式軽装甲車)。

自動車中隊(2コ小隊)        - 自動車 12両。 (九五式小型乗用車.九四式六輪自動貨車など)。

 ※ その後の南方派遣時には.海上機動に馬匹.車両随伴を禁止または制限され.ほぼ徒歩編制の小銃.機関銃のみの挺身隊となった。




太平洋戦争・南方方面戦時編成・優良装備の捜索連隊 - 初期動員の近衛捜索連隊.捜索第5.第16.第56連隊や、中期動員の捜索第4.第53.第54連隊など。

本部

乗車中隊   ×2

装甲車中隊 ×2 - 軽装甲車 8両  ( ※ 装甲車中隊、軽戦車中隊.各1コ中隊に強化された捜索連隊もあり)

通信小隊

整備小隊

※ 捜索第48連隊には、九七式自動二輪車などを60両集中配置した自動二輪車隊が追加された。

※ さらに、比島での捜索第48連隊の活躍を参考にして、捜索第2連隊に自動自転車隊が増加された。




戦車師団の師団捜索隊 - ただし、戦車第4師団では当初から欠。

本部

軽戦車中隊(2-3コ) -  軽戦車九五式軽戦車など)10両

乗車中隊

砲戦車中隊          -  砲戦車(実際には九七式中戦車や軽戦車で代用)10両、軽戦車2両

整備中隊


※ 長期外地出征中の第3師団名古屋).第6師団熊本)は、内地帰還後に騎兵連隊より捜索連隊への改編を予定したが、戦況悪化により遂に帰還叶わず、主力兵団として騎兵連隊まま戦地にあった[注釈 4][注釈 5]

※ 捜索連隊が設置されず騎兵連隊常衛戍の第52師団金沢).第55師団善通寺)や近衛騎兵連隊には戦車中隊を設置し、全国満遍なく機甲教育行ない戦地兵員補充を融通していた[注釈 6]



戦例
ノモンハン事件における第23師団捜索隊


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef