捕鯨文化
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出典検索?: "捕鯨文化" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年1月)
「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎画 1830年ごろ

捕鯨文化(ほげいぶんか)とは産業としての捕鯨だけでなく、捕鯨や鯨に纏わる様々な信仰伝統芸能祭礼絵画書籍などが伝承されていることを指す。

日本で鯨は文化史や産業において「」であるため、以下の事項においては、魚として記載されている。日本以外でも捕鯨や鯨にまつわる文化や信仰と呼べるようなものが散見されるが、その文化において魚とするか、動物とするかは、その国の歴史による。

産業(資源利用)としての捕鯨については捕鯨鯨骨鯨油を参照。また捕鯨文化のうち、鯨料理に関する食文化や書籍については鯨骨鯨肉を参照。「巨鯨の背中に乗る宮本武蔵」:歌川国芳
えびす

えびす(蛭子、戎、恵比寿など)は外来の神としての性格を持ち、外洋から訪れる鯨にえびすの神格が重ねられる。

日本において「寄り鯨」「流れ鯨」[1]と呼ばれた漂着鯨[2]が高い頻度で発生する。それらのクジラを「えびす」と呼んで神格視しながら受動捕鯨として盛んに資源利用し、これが「寄り神信仰」の起源となった。特に三浦半島能登半島佐渡島などに顕著に残り、伝承されている。

寄り鯨の到来は「七浦が潤う」ともいわれ、えびす神が身を挺して住民に恵みをもたらしてくれたものという理解もされていた。土地によって逆の解釈もあり、えびす神である寄り鯨を食べると不漁になるという伝承も存在した。
鯨と碑

流れ鯨や寄り鯨を捕獲や浦やに迷い込んだ鯨を追い込み漁で捕獲した記録が日本各地の海浜地区で残されており、その大漁に賑わった事や感謝や追悼を様々な形で表し記念碑を建てて後世に伝承している。また日本各地の捕鯨を生業としていた漁業従事地域では、豊漁祈願や追悼として地域住民が定期的に設けた碑に供物や唄・踊り・音楽(囃子)などを捧げている。ここで紹介する例は全体のほんの一部である。個々の名称は「」や「」など様々であるが、ここでは総称として「碑」とした。

仏教において鯨の供養に関連する表記は鯨鯢(けいげい)とするところが多く、「鯨」は雄鯨「鯢」は雌鯨の事である。また一部地域では、クジライルカを分けておりイルカは鯆と表記する。神社に鯨の墓や奉納された位牌があるが、記載の誤りではなく神仏習合の影響と考えられる。

神道と仏教を分け隔てなく供養祀りをしている地域も多くあり、また追悼や感謝だけでなく海神や漁業神として鯨を祭る地域もある。
鯨塚歌川広重『名所江戸百景』「品川すさき 」(利田神社)

神奈川県三浦市西浜の地蔵院にある鯨塚は、城ヶ島で鯨が捕獲された1834年天保5年)に建立された。

東京都品川区利田神社にも鯨塚がある。1798年寛政10年)に長さ16から18メートルの鯨が追い込み漁により捕獲され役人や将軍徳川家斉が検分した後、払い下げを受け当時の江戸庶民が潤い賑わった、その感謝と追悼で鯨の頭骨を埋め塚を作った。その後、品川で1820年文政3年)には3間半(約6.3メートル)と2間半(約4.5メートル)の「さかまた(シャチ)」2頭が捕らえられている。また1822年(文政5年)に漁師達が長さおおよそ20メートルの鯨を捕獲した記録も残っている。

鯨墓

詩人金子みすゞ山口県長門市仙崎で生まれた。仙崎は鯨の捕獲で成り立っていた漁師の村であり、ここにも鯨墓が存在する。金子みすゞは鯨法会をする地域の慣わしに感銘し『鯨墓』を書いた。この『鯨墓』が慈しみを主題とする金子みすゞの詩集の原点とも言われる。

京都府与謝郡伊根町青島の蛭子神社には3つの鯨墓がある。この墓の謂れには、母鯨を誤って捕獲してしまい子鯨まで死なせてしまったという漁民の後悔から建てられたという話が伝承されている。なお、この時の親子鯨の肉には一切手を付けなかったと伝えられている。

大分県臼杵市にあり市内には「大浜」「佐志生」「中津浦」「大泊」に鯨の墓が見られる。その中で大泊では1870年明治3年)港湾工事の莫大な支出のため、財政が逼迫をしていた。その時、流れ鯨が現れ捕獲し、余すところ無く高値で売れたため、借金を返済することができた。それに感謝し供養した墓といわれる。

山口県長門市通の向岸寺に鯨墓がある。

その他
鯨碑
宮崎県日南市油津の人柱様公園に鯨魂碑がある。江戸時代に何週間も悪天候が続き、不漁による飢饉に苦しんでいたところ油津の浜に一頭の鯨が打ち揚げられ飢えをしのぐことができた。鯨は胎児を宿していて油津の人々は悲しみ感謝し、親鯨の目玉と子鯨を埋葬し鯨魂碑が建立された。この伝承されている話を基に油津の児童によりミュージカル『油津物語』として公演が行われた。長崎県北松浦郡的山大島の真教寺に鯨供養碑がある。1862年元禄5年)に建立された。
鯨供養塔
愛媛県伊予市湊町の湊神社にある。捕獲の一周忌に祈念され「克鯨一字一石塔」という銘の石塔が1910年(明治43年)3月に建立された。「明治42年に郡中沖に一頭の鯨が棲み付いたが、当初は湊町の漁民は捕鯨の技術が無かったので訝しく(いぶかしく)思うだけであった。居座る鯨に湊町の漁民は意を決し捕鯨に乗り出すが失敗に終わってしまう。下関市の馬開捕鯨会社に協力を求め同年3月に2度目の捕鯨が試みられる。法螺貝の合図と共に出航し50人の銛打ちと砲手が鯨を仕留め、牛2頭と数百人の力で曳揚られ恵美須の浜(現在の恵美須組地区の付近)はとても賑った」という話が伝承されている。また伝承によれば抹香鯨となっているが石塔の銘は克鯨となっている。長崎県平戸市の長泉寺に鯨供養石造五重塔がある。1739年元文4年)に小値賀島の鯨組である小田組と地域住民の寄進により建立され長崎県の有形民俗文化財 に指定されている。この五重石塔は砂岩の基礎と塔身の軸部と笠、相輪部からなり、高さ4.6mで多宝如来(合掌印)と釈迦如来(禅定印)と法華経見宝塔品の諸仏の名を刻む。平戸島前津吉の浜は1692年(元禄5年)から1859年まで167年間捕鯨で繁栄していた。
鯆供養塔(いるかくようとう)
静岡県伊豆半島に7か所存在し、そのうち3つが西伊豆町安良里にある。安良里地区はイルカの追い込み漁で随分賑わったとされており、その技術が伝承され水族館などに鯨類を提供している。
鯨石
三重県志摩市大王町波切の波切神社の境内に、鯨石と呼ばれる卵形の石が数個ある。鯨漁で鯨を捌いたとき体内から丸い石が出てくることがあったので、出てきた石を神社に祀ったと伝えられる。石を祀った年代は不明であるが、波切では、遅くとも江戸時代の1644年正保元年)から1715年享保10年)までは10艘前後の鯨船で捕鯨が行われていた[3]
鯨卒塔婆
新潟県佐渡市両津大字片野尾に鯨卒塔婆がある。


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