?婁
[Wikipedia|▼Menu]


満洲の歴史
箕子朝鮮東胡?貊
沃沮粛慎
遼西郡遼東郡
遼西郡遼東郡
前漢遼西郡遼東郡衛氏朝鮮匈奴
漢四郡夫余
後漢遼西郡烏桓鮮卑?婁
遼東郡高句麗
玄菟郡
昌黎郡公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋平州
慕容部宇文部
前燕平州
前秦平州
後燕平州
北燕
北魏営州契丹庫莫奚室韋
東魏営州勿吉
北斉営州
北周営州
柳城郡靺鞨
燕郡
遼西郡
営州松漠都督府饒楽都督府室韋都督府安東都護府渤海国黒水都督府靺鞨
五代十国営州契丹渤海国靺鞨
上京道 東丹女真
中京道定安
東京道
東京路
上京路
東遼大真国
遼陽行省
遼東都司奴児干都指揮使司
建州女真海西女真野人女真
満洲
 

東三省ロマノフ朝
中華民国
東三省ソ連
極東
満洲国
ソ連占領下の満洲
中華人民共和国
中国東北部ロシア連邦
極東連邦管区/極東ロシア北朝鮮
薪島郡
中国朝鮮関係史
Portal:中国

?婁(ゆうろう、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Yilou)は、後漢から五胡十六国時代1世紀から4世紀)にかけて、外満洲付近に存在したとされる民族。
歴史

古の粛慎(しゅくしん)の末裔とされ、魏代・晋代でもそのまま粛慎と呼ばれ続けた。?婁の呼称は、彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro)、箭や後の牛禄(niru)、坑(yeru)などの音訳と考えられている[1]2世紀頃の東夷諸国と?婁の位置。
魏代

漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、黄初年間(220年 - 226年)に反乱を起こした。夫余は何度か?婁を討伐したが、独立し魏への朝貢を行った。

明帝(在位:226年 - 239年)の青龍4年(236年)5月、粛慎(?婁)は?矢を献上した。

元帝(在位:260年 - 265年)の景元3年(262年)4月、遼東郡の報告で、粛慎国(?婁)の遣使が重譯(二重通訳して)[2]入貢し、長さ3尺5寸の弓30張,長さ1尺8寸の?矢,石弩300枚,皮骨鉄雑鎧20領,貂皮400枚を献上してきた。元帝は詔で相府に帰属させ、その王に錦?と綿帛を賜った。4世紀頃の東夷諸国と?婁の位置。
晋代

武帝(在位:265年 - 289年)の咸寧5年(279年)12月、粛慎(?婁)は?矢石?を献上した。

東晋元帝(在位:317年 - 322年)の大興2年(319年)8月、粛慎(?婁)は江東建康)に詣でて?矢石?を献上した。

成帝(在位:325年 - 342年)の時代、後趙石虎(在位:334年 - 349年)に朝貢した。

前秦苻堅(在位:357年 - 385年)が華北を統一すると、粛慎(?婁)は?矢を献じた。

その後は勿吉靺鞨と名称を変えていく。
地理

三国志』には、夫余の東北千余里のところにおり、大海に面し、南は北沃沮と境を接し、北はどこまで及ぶのかわからない。その土地は険しい山地が多い。気候は寒冷で、夫余よりも厳しいとあり、外満洲(現在のロシア連邦沿海地方)の松花江流域に居住した。
習俗
衣食住と人尿洗顔

?婁の生活スタイルは、その東夷諸国のなかでは極めて特異である。まず、?婁人は地上に家を建てず、地下に縦穴(竪穴)を掘り生活する。竪穴は深く(梯子の段数が多く)かつ大きいほど尊ばれたという。住居を地中に構えたのは、防寒の為と考えられている。さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮らし、その人尿で手や顔を洗ったという。尿に含まれるアンモニアは弱アルカリ性のために皮脂汚れを落とす効果があり、古代ローマでは回収した尿で洗濯する業者がいたことが現代では知られているが、当時の中国大陸ではそのような習俗はなく、『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。

また、?婁人は養豚が盛んで、を主食とし、豚の皮を着物にした。夏にはほぼ全裸でわずかな布だけで前後を隠したが、冬には豚の膏(あぶら)を身体に数センチもの厚さに塗って風や寒さを防いだという。食事をするときに、他の東夷諸国では俎豆と呼ばれる食器(高坏形土器)を常用していたのに対し、?婁人は俎豆を使う習慣が無く、鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をしていた。『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。

人が少なく、険しい山に住み、衆は規律に服さず、操船が巧みでしばしば近隣諸国を寇掠したとも記されている。また、邑落の大人(たいじん)を一つの血族が継承する習俗があり、これは、近隣の扶余や沃沮が合議による選挙で大人を選んだのとは対照的である。
毒矢使用

?婁人は、弓矢に長けており、必ず人の目を射当てる。矢には毒が塗られており、人に当たれば死に至る。石製または鉄製の鏃は先端が鋭利で、血抜き或は毒を塗る為の溝や凹みを設けており精巧な造りをしている。
婚礼

男性は女性の頭に羽毛を挿し、女性と和んだらすぐに自分の家に持ち帰って婚礼の儀を執り行う。
葬祭

死者が出たらその日のうちに木を交えて小槨を作り、死者の糧とするために豬(ブタ)を殺してその上に積み、土葬する。また、男子で泣く者は「男らしくない」と言われるため、父母が死んでも、男子は泣かない。
刑罰

最大の罪である窃盗をした者は、その盗んだ物が多かれ少なかれ死罪となる。
政治

?婁には統一的な指導者は存在せず、邑落ごとに大人(たいじん:部族長)がいた。
産業

五穀麻布、赤玉、良質の(“?婁の貂”)を産出。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:73 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef