振東社
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日本政党東方会
東方会の党旗
成立年月日1936年5月25日
解散年月日1944年3月23日
解散理由主宰者である中野正剛自殺及び一斉検挙のため消滅
後継政党東方同志会[1]
政治的思想・立場極右[2]
国家主義[1][3][4][5]
アジア・モンロー主義[4]
統制経済論[4]
国家社会主義[5]
全体主義(1936年以降)[5]
ファシズム[6]
機関紙『東大陸』[4]
『東方時論』[1]
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東方会(とうほうかい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:東方會)は、1936年昭和11年)5月25日国民同盟を脱党した中野正剛東則正によって結成された日本ファシスト団体[7][8]国家主義政党である。九州を地盤とし、西日本の農村部に勢力を持った[9]。昭和17年7月に東方同志会に改組[10]
沿革東方会の反英ポスター

協力内閣運動の失敗により立憲民政党を離党した中野正剛は、国民同盟の結成を主導した。しかし、思想的には国民同盟内をリードしていた中野派も、現役代議士である国民同盟の性質上、他派との意見の相違が少なからず存在しており、行動の自由を得ようと別組織を新たに設けることとした。1933年(昭和8年)10月、研究組織としての東方会が創設され、稲村隆一戸叶武風見章木村武雄杉浦武雄石原莞爾影佐禎昭らがいたという[11]

国民同盟の分裂が進む中で中野も1935年(昭和10年)に脱退、以降中野派の人々が相次いで脱退して政治団体がつくられていった。

1936年(昭和11年)政事結社の届出を行い、正式に政党として成立したが、綱領や規約、役員が決定されるのは翌年5月になってからだった[12]。結成直後から軍官僚と翼政会首脳は東方会を警戒した[13]

中野派は大衆組織への志向をもっていたことから、広汎に大衆に働きかけを行っていった[14]。中野は幅広い党派での合同運動の構想をもっており、特に国民同盟や社会大衆党とは1939年(昭和14年)には具体的な協議に入っていたが、国民同盟総裁の安達謙蔵は党内に反対者が続出しているとして2月8日に不参加を回答した[11]。残る社会大衆党との合同協議は進み、同党は2月9日の常任中央執行委員会で東方会との合同実現を基本方針とすることを承認した[11]。そして新党の結党大会の日程決定まで至ったが、社会大衆党内で旧日労系(旧日本労農党系)が主導して議論が進行していたことから、社民系(旧社会民衆党系)が人事問題で反発し、さらに同党の安部磯雄が不参加を表明したことで合同構想の破綻は決定的となった[11]

1940年(昭和15年)に新体制運動が起こると東亜建設国民連盟に参加して新体制運動を推進していった。1940年(昭和15年)に新体制運動への合流のために文化団体への改組が東方会で内定していたが開催された臨時全国大会において正式に解党と思想団体の改組が決定した(1939年10月に政治結社東方会を解散し、思想団体振東社として再結成[9])。なお、この間に中野は大政翼賛会常任総務に就任した。

しかし、近衛文麿が翼賛会は「政事上の結社ではない」と明言したことに対し、不満をもった中野は1941年(昭和16年)に常任総務を辞任し、翼賛会を脱退、政事結社としての東方会を再興した。その後、1942年(昭和17年)に東条英機内閣下で執行された第21回衆議院議員総選挙翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会からの推薦を拒否して独自候補を擁立した。反官的、反政府的選挙運動を展開し、当選者は立候補者47名中6名に留まり、議席数を後退させた[9]。選挙後の翼賛会加入議員は449人に達し、加入していない議員は東方会の6人を含め11人に減少した[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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