挂甲
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復元された古墳時代の小札甲と衝角付冑大阪府藤井寺市長持山古墳出土資料の復元品。大阪府立近つ飛鳥博物館所蔵)。現在これらを「挂甲」と呼ぶのが一般化しているが、本来の「挂甲」は奈良平安時代の小札甲の1種(裲襠式挂甲)を示す語であるため、古墳時代のものについては2006年(平成18年)の橋本達也らの指摘のように[1]「小札甲」または「札甲」と呼ぶべきとする意見も強まりつつある[2]

挂甲(けいこう/かけよろい/うちかけのよろい[3][注 1])は、古代日本奈良平安時代に用いられた甲(鎧)[注 2]の形式および呼称のひとつ。考古学では古墳時代の同形態の甲に対しても用いられてきた名称だが、2006年(平成18年)の橋本達也らの指摘[1]のように近年[注 3]、古墳時代のものについては「小札甲」または「札甲」と呼び、挂甲と呼ぶべきではないとする意見が出てきている[2]。奈良・平安時代に存在した本来の「挂甲」の形態については不明な点が多い。
概要

鉄製や革製の短冊状の小板である「小札(こざね)」に穿孔し、組紐・革紐(貫)で縦横に縅(おど)して連接する構造(札造り)の甲である[注 4]

『挂甲』の語は、聖武天皇崩御77回忌にあたる奈良時代天平勝宝8歳6月21日(756年7月22日)に、光明皇太后が亡帝の遺品を東大寺に献納した際の目録『東大寺献物帳』に見える。それによると「短甲10具・挂甲90領」が献納されたとある。また、平安時代927年(延長5年)に成立した『延喜式』などの史料においても「短甲」と「挂甲」の記述が見られる。

これら奈良・平安時代の史料にみえる「挂甲」が、実際にどのような姿であったのかは遺物がほとんど残っていないため明確ではないが、現在では史料記載内容の分析により、考古学で「裲襠式挂甲(りょうとうしきけいこう)」と呼ばれている小札甲の一種だったと推定されている[5][2]

なお現在もっぱら「挂甲」と呼ばれているのは、古墳時代古墳から出土する小札甲に対してであるが、これは研究史上の過程で奈良・平安時代の史料に記された「挂甲」の語が、古墳時代の小札甲に便宜的に当てはめられたものであり、それらが古墳時代当時、実際にどのような名称であったのか明らかでないうえ、奈良・平安時代の本来の「挂甲」が、構造の分類上「裲襠式」・「胴丸式」の2種が存在するうちの「裲襠式」の小札甲を表す語であることから[注 5]、用語として不適切であるとの問題が指摘されている[2]用語の問題も参照)。
古墳時代の小札甲埴輪 挂甲武人』(国宝東京国立博物館所蔵)。なお、この形式(胴丸式)の小札甲は、奈良時代の「短甲」にあたると考えられており、「挂甲」の語を用いるのは本来適切でないとの指摘がある[6]群馬県立歴史博物館に展示された金井東裏遺跡出土「甲を着た古墳人」の複製。小札甲は内側の人骨が見えるように側面を切り開いた形で展示されている。
研究略史

古墳出土甲冑についての考古学的な研究史明治期に遡る。1898年(明治31年)に千葉県木更津市祇園大塚山古墳から出土した小札造りの甲(現在、「古墳時代の挂甲」と呼ばれているタイプ)について、小杉榲邨が『東大寺献物帳』にみえる「短甲」であろうと報告したが[7]、3年後の1901年(明治34年)に岡山県小田郡新山古墳から出土した幅広の鉄板を連接した板造り形式の甲を、沼田頼輔有職故実研究の大家として知られていた関保之助の教示を受けて「短甲」と呼んで報告した[8]。これ以降、古墳時代の板造りの甲を「短甲」、小札造りの甲を「挂甲」と呼ぶ傾向が定着していき、1913年(大正2年)には高橋健自が「短甲」「挂甲」の呼び分けを既に用いている[9]

初期の古墳時代研究において、当時代の甲冑形式の枠組みを構築したのは末永雅雄である。末永は、板造り甲と札造り甲の形態的・技術的な分析と分類をしたうえで「短甲」「挂甲」の形式名を定め、今日まで引き継がれる当時代甲冑研究の基礎を築いた[2]。札造り甲については奈良県奈良市円照寺墓山古墳や和歌山県有田市椒古墳(はじかみこふん)の出土例などを検討して「裲襠(両当)式挂甲(りょうとうしきけいこう)」と「胴丸式挂甲(どうまるしきけいこう)」の2形式を設定した[10]

古墳から出土する小札甲は、縅紐が腐朽すると形状が崩壊し、小札も銹化してしまうため、部分的にしか残らず全体像の復原が容易でない。そのため研究の進展が遅れていたが、埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳奈良県斑鳩町藤ノ木古墳の出土例などの類例増加により、バラバラの状態から全体を復原する方法や、縅紐の連接法などによる分類が可能となり、1980年代頃から研究が進展し始めた。2000年代以降、中国韓国でも札甲の研究が進展したため、東アジア的な視点での形態や技術の分析、系譜論などが検討されるようになってきている[11]

2012年(平成24年)には、群馬県渋川市金井東裏遺跡で甲冑(小札甲と衝角付冑)を着たまま榛名山火砕流に飲まれた「甲を着た古墳人」が発見されたが、その近くで同時に発見された別の甲冑で、小札が鹿角製(ろっかくせい)のものが見つかり新発見となった[12]
分類

裲襠式は、小札を紐で連接して構築した2枚の装甲板(札板)を肩上(わたがみ)で繋ぎ、胴の前後にサンドイッチマンのようにかけて装着し、両脇は脇盾(わいだて)状の別部品の装甲で覆うタイプである。

胴丸式は、小札を縅した札板を、胴に巻き付けるように一周させ、前方で引き合わせて装着するタイプである。「衝角付冑」や「眉庇付冑」などの冑()や、肩甲・膝甲などのパーツが付属する。

これらは古墳時代中期の板甲(短甲)とはまったく異なる構造をしており、導入時から大陸の技術的影響を強く受けて成立したものとみられている[11]。5世紀中頃以降に登場し「裲襠式」ののちに「胴丸式」が登場する[注 6]

なお、次項に述べるように、本来は「(奈良・平安時代の)短甲」が「胴丸式」の小札甲を示すと考えられているため、「挂甲」の中の一形式のように「胴丸式」を記述する事には誤謬がある[14]
用語の問題

前述の考古学上の研究史に見るように、古墳時代甲冑の形式名称は、奈良・平安時代の文献史料にある語を引用し、板造り甲(帯金式甲冑)に「短甲」、小札造り甲に「挂甲」の語が当てられて成立したものであったが、これについては美術史学者や甲冑研究者の中から早くから問題が指摘されていた[15][16][17][18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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