持統天皇
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持統天皇
持統天皇
第41代天皇
在位期間
690年2月14日 - 697年8月22日
持統天皇4年1月1日 - 持統天皇11年8月1日
時代飛鳥時代
先代天武天皇
次代文武天皇

誕生645年[1]
崩御703年1月13日
陵所檜隈大内陵・野口王墓古墳
漢風諡号持統天皇
和風諡号大倭根子天之廣野日女尊
高天原廣野姫天皇
諱?野讚良
父親天智天皇
母親蘇我遠智娘
子女草壁皇子
皇居飛鳥浄御原宮藤原宮
女帝 
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持統天皇(じとうてんのう、645年大化元年〉 - 703年1月13日大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇皇后天智天皇の娘、天武天皇のにあたる)、のちに持統天皇となり皇室史上3人目の女性天皇[2]となった。

は?野讚良(うののさらら、うののささら)であり、これは娑羅羅馬飼造が養育したからであると考えられる[3]。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』巻30の冒頭に記された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは巻1・冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。確実ではないが伊勢神宮に参拝し「日本」国号を定めた可能性が高い天皇である(後述)[4]。漢風諡号「持統天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。[要出典]
生涯「百人一首之内 持統天皇」
壬申の乱の前まで

父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。

大化5年(649年)、誣告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、美濃は当時三野とも書いたので、三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。美濃津子娘と造媛が同一人物なら、?野讃良は幼くして母を失ったことになる[5][注釈 1]

斉明天皇3年(657年)、13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。天智天皇元年(662年)に筑紫国娜大津で?野讃良皇女は草壁皇子を産み[7]、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、?野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。
壬申の乱

天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは?野讃良皇女だけではなかったかとされる[8][出典無効][注釈 2]

大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は草壁皇子忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃国に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて伊勢国桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。

壬申の乱のときに土地の豪族・尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。
天武天皇の皇后.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "持統天皇" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年11月)

大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年2月に即位すると、?野讃良皇女が皇后に立てられた。

『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。

679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子大津皇子高市皇子忍壁皇子川島皇子志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。

皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。

681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}皇后の強い要望があったと推測される[独自研究?]。

685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。
大津皇子の謀反


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