持丸博
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もちまる ひろし
持丸 博
生誕
1943年??月??日
日本茨城県水戸市
死没 (2013-09-24) 2013年9月24日(70歳没)
日本東京都杉並区
死因食道癌
国籍 日本
別名松浦博
民族日本人
出身校早稲田大学
職業政治活動家
活動期間1968年 ? 1970年
団体民兵組織「楯の会」(前身は「祖国防衛隊」)
肩書き「楯の会」一期生・初代学生長、第2班班長
敵対者反日主義共産主義
配偶者松浦芳子
家族威明(長男)、ゆか(長女)
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持丸 博(もちまる ひろし、1943年(昭和18年) - 2013年(平成25年)9月24日)は、日本政治活動家民族主義者。三島由紀夫の結成した「楯の会」の初代学生長。結婚後に姓が変わり、松浦博となった[1][2]茨城県水戸市出身。
経歴
水戸学派

1943年(昭和18年)に茨城県水戸市に生れた持丸博は、藤田東湖の流れの水戸学を学び、水戸学派的思想を育んだ[3]

1963年(昭和38年)、茨城県立水戸第一高等学校を経て早稲田大学へ入学。各地で学園紛争が吹き荒れる中、全学連全共闘に対抗するため、1966年(昭和41年)11月14日に設立された保守民族派系の学生組織「日本学生同盟」(日学同)の結成に参加した[4][5]

持丸はその趣意書等を起草するなど、理論派として活動し、1967年(昭和42年)2月7日発刊の機関紙『日本学生新聞』の初代編集長を務めた[4]。日学同結成の仲間には、早稲田大学院生の矢野潤、早大教育学部宮崎正弘、斉藤英俊、森田必勝、早大政経学部の山本之聞、伊藤好雄などがいた[6][5][3]

同じ平泉澄学派の門下生で「青々塾」で知り合った明治学院大学卒の中辻和彦と万代潔が1967年(昭和42年)1月に創刊した民族派のオピニオン月刊誌『論争ジャーナル』の編集員も兼任し、自らも「高山義彦」という筆名で評論・批評を執筆していた持丸は、万代らを通じて三島由紀夫を訪問し、『日本学生新聞』創刊号に寄稿依頼した[7][8][9]
楯の会

日本が70年安保に向かって騒然とする中、持丸は三島と意気投合し、三島の片腕として民兵組織「祖国防衛隊」(のちの「楯の会」)設立を計画。三島と共に日学同や全国学生協議会の学生を引率して陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地に体験入隊し、初代学生長として4期生まで約80人の学生を選抜して、その指導にあたった[3](詳細は楯の会#経過を参照)。

1969年(昭和44年)夏頃、『論争ジャーナル』の運営資金上の問題で中辻和彦と三島の間の齟齬が大きく表面化し、8月に中辻と万代ら論争ジャーナル組の1期生数名が楯の会を退会した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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