拓跋什翼?
[Wikipedia|▼Menu]

昭成帝 拓跋什翼?

10代王
王朝
在位期間338年 - 376年
都城繁畤→盛楽
姓・諱拓跋什翼?
字不詳
諡号昭成皇帝
廟号高祖
生年318年
没年376年
拓跋鬱律
母王氏
年号建国

拓跋 什翼?(たくばつ じゅうよくけん、?音:Tuoba Shiyiqian、318年 - 376年)は、五胡十六国時代代国の王。北魏の太祖道武帝の祖父[1] である。道武帝より廟号を高祖、諡号を昭成皇帝と追号されている。『晋書』では渉翼?と記載される。
生涯
若き日

318年、代王拓跋鬱律の次男として生まれた。生まれながらにして比類なく立派であったという。

321年、伯母の惟氏は、拓跋鬱律と諸大人を初め数十人を殺害すると、自らの子拓跋賀?を王に立てた。拓跋什翼?はまだ幼かったため、母の王氏は、彼を袴の中に隠して逃走した。そして、「お前に天の御加護があるのなら、どうか泣かないでいでおくれ」と祈った。拓跋什翼?は声を挙げなかったので、母子はどうにか逃げ出すことが出来た。

325年、拓跋賀?が死に、同じく惟氏の子である拓跋?那が後を継いだ。

329年、兄の拓跋翳槐が拓跋?那を追い出し、賀蘭部と諸大人に推されて代王となった。拓跋什翼?は兄の命により、後趙へ使者として赴き、石勒と接見し和平を請うた。この時、彼に付き従ったものは5千家を超えた。その後、彼はそのまま人質となり、途中襄国から?に移り、約十年間を後趙で過ごした。

338年10月、拓跋翳槐は病に倒れると、弟の拓跋什翼?を後継に立て、国家を安定させるよう諸大人へ遺言し、その後間もなく亡くなった。梁蓋を初め諸大人は、拓跋什翼?が遠く離れた地にいるため、彼を呼び寄せる間に変事が起こることを恐れた。そのため、この遺命に難色を示し、別の主君を立てようと協議した。拓跋什翼?の弟のうち、拓跋屈は剛猛であったが偽りが多い人物だった。次の弟の拓跋孤は仁義に厚い人柄だった。彼らは協議を重ねた結果、拓跋屈を殺して拓跋孤を後継に立てた。しかし拓跋孤はこれを拒絶し、自ら?へ赴いて拓跋什翼?を迎えた。そして、後趙の石虎へ「兄は国へ帰り主君とならねばなりません。代わって私が人質となりますので、どうか兄を帰国させて下さいますよう」と、申し出た。石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも帰国させた。

同年11月、国に帰った拓跋什翼?は、繁畤城以北の地で代王に即位した。この時19歳であった。初めて独自の元号を用い、建国と称した。
治世

建国2年(339年)、百官を設け国家としての体制を整えた。代人の燕鳳を長史に、許謙郎中令にそれぞれ任じた。反逆・殺人・強姦・窃盗等の法が明文化され、律令は明確となった。彼の政治は清廉で簡潔であると称された。連座や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して「烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼?は烏桓を2部に分け、弟の拓跋孤に北部を、庶長子の拓跋寔君に南部をそれぞれ監督させた。東は?貊から西は破落那まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人を数えた。

拓跋猗盧が死んで以降、代国内では多難が続き、部族は離散した。拓跋部は次第に衰退していった。だが、拓跋什翼?は雄勇にして知略があり、国を良く治めた。そのため彼が継いで以降、代の勢力は盛り返していった。

拓跋什翼?は、前燕とも修好を深め、婚姻関係となることを望んだ。燕王の慕容?は妹を嫁がせ、拓跋什翼?は彼女を王后に立てた。5月、拓跋什翼?は参合陂に諸部の大人を集め、湿源や川に新たな都を定め、城壁を築いて宮室を建てることを協議した。だが、数日経っても結論は出なかった。 母の王氏は「国が成立する以前より、我らは代々遊牧を生業としてきました。今、国家は内外共に多難であり、もし城壁を築いて定住してしまえば、一旦敵に攻められた時、逃げ場所がなくなってしまいます」と述べ、反対した。拓跋什翼?は、これを受けて築城を中止した。

建国3年(340年)春、雲中郡の盛楽宮(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)に再び遷都した。

建国4年(341年)9月、かつて盛楽城があった場所の南8里に新たに城を築いた。同月、王后の慕容氏が卒去した。10月、匈奴鉄弗部劉虎は西部国境に侵攻してきた。拓跋什翼?は軍を派遣して迎え撃ち、これを大破した。間もなく劉虎が没すると、子の劉務桓は代に帰順してきたため、拓跋什翼?は彼に娘を娶らせた。12月、慕容?は代国へ使者を派遣し、新たな后として慕容部の王族を勧めた。

建国5年(342年)5月、拓跋什翼?は参合陂へ視察に赴いた。7月7日、各部落の者を集め、高台を築いて武芸大会を取り行った。後に制度化され、定期的に行われるようになった。8月、拓跋什翼?は雲中郡へ戻った。

建国6年(343年)7月、拓跋什翼?は再び前燕に婚姻を求め、結納として千匹の馬を求めたが、拓跋什翼?はこれを拒否した。また傲慢な態度を取り、婿としての礼儀に欠けていた。8月、慕容?は世子の慕容儁に命じ、慕容評らを従え代国を攻撃させた。拓跋什翼?は軍を撤退させたため、慕容儁は戦うことなく引き返した。

建国7年(344年)2月、拓跋什翼?は大人の長孫秩を前燕へ派遣し、慕容?と再度和睦した。慕容?は娘を送り、拓跋什翼?は王后に立てた。9月、兄の拓跋翳槐の娘を慕容?の妻として与えた。

建国14年(351年)、拓跋什翼?は「後趙は衰退し、冉閔中原を荒らし回っており、これを救うものは誰もいない。我は六軍を率いて、天下を平定しようと考えている」と述べ、各部落に命じ、部衆を集めて命令を待つよう伝えた。諸部の大人は「中原は大いに乱れており、軍を進めてこれを突くことは出来るでしょう。しかし、別の勢力が中原に割拠するようになっており、一挙に平定することは出来ないでしょう。もし長期間遠征を行っても、大きな利益を上げるのは難しく、むしろ損害が大きくなるのを憂えています」と、諫めた。拓跋什翼?はこれを受け、作戦を中止した。

建国18年(355年)、母の王氏が卒去した。

建国19年(356年)1月、劉務桓が死に、弟の劉閼頭が後を継いだ。彼は代国へ対し異心を抱いていた。2月、拓跋什翼?は西へ向かい、黄河の岸辺に至った。使者を劉閼頭の下へ派遣し、彼を諭した。劉閼頭は大いに恐れて、降伏した。同年冬、慕容儁は代へ使者を派遣し婚姻を求めると、拓跋什翼?はこれに同意した。

建国21年(358年)、鉄弗部で大規模な造反が発生した。12月、劉閼頭は恐れ、配下を引き連れて東へ逃げた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef