抽象表現主義
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "抽象表現主義" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年12月)

抽象表現主義(ちゅうしょうひょうげんしゅぎ、: Abstract expressionism)は、1940年代後半のアメリカ合衆国で起こり、世界的に注目された美術の動向である。抽象表現主義という語は、1919年にワシリー・カンディンスキーの作品に記述されたのが初めてで、その後1946年にロバート・コーツ(英語版)が再採用したものである[1]。また抽象表現主義はハロルド・ローゼンバーグ(英語版)が「アクション・ペインティング」と命名しているものの総称としても使用される[1]
主な特徴

巨大な
キャンバスイーゼル絵画との決別)

画面に中心がなく、地と図の区別がない、「オールオーバー」(均一)な平面

キャンバスは、作家の描画行為の痕跡(フィールド)であると考え、創作過程を重視する
ウィレム・デ・クーニング「Litho -2」

代表的な作家は、ジャクソン・ポロックバーネット・ニューマンマーク・ロスコウィレム・デ・クーニング、ロバート・マザウェル(英語版)などで、彼らを評価した批評家として、クレメント・グリーンバーグ、ハロルド・ローゼンバーグなどが有名である。

アメリカがはじめて世界に影響を及ぼした美術運動であり、ニューヨークパリに代わって芸術の中心地となるきっかけになった。「ニューヨーク・スクール」(ニューヨーク派)とも呼ばれる。
美術の中心はニューヨークへ

1930年代のニューヨークは、ベン・シャーンら、労働者の貧しい現実や社会問題を描くリアリズム絵画や、「アメリカ地方主義絵画」が全盛で、モダニズムは肩身の狭い存在だった。そこにヨーロッパから渡米したハンス・ホフマンジョゼフ・アルバースらがグリニッジ・ヴィレッジで私塾を開き、抽象絵画を教え始めた。アメリカ人彫刻家のイブラム・ラソー(英語版)のスタジオにも、アド・ラインハート(英語版)、アルバースらが集い、のちに「アメリカン・アブストラクト・アーティスツ」という組織に発展した。ロスコやポロックなど、後の抽象表現主義のスターとなる作家たちがこうした中にいた。そして1940年代前半には、第二次世界大戦の戦火を避けて、ヨーロッパからシュルレアリスム抽象絵画バウハウス関係者など、美術家、音楽家、建築家、デザイナーら、あらゆる種類の前衛芸術家たちがニューヨークに亡命してきた。

彼らがアメリカに感じた魅力は、自由と豊かさ、大勢のパトロンの存在だったといえる。そしてアメリカの若い芸術家たちにとっても、ヨーロッパの最先端を吸収する絶好の機会となった。

第二次世界大戦以前は、アメリカ人の若い画家や彫刻家たちは、芸術の本場であるヨーロッパのパリなどに留学して学ぶことが一般的だった。アメリカはヨーロッパから一方的に学ぶ側で、アメリカ人の蒐集家たちも自国の作家よりヨーロッパの作家の作品を買い集めていた。たまに個々のアメリカ人画家や彫刻家がヨーロッパで評判になることはあっても、大きな影響を与えるようなことはなかった。ヨーロッパの前衛を担う人々がアメリカに移ってきたことで、アメリカでもモダニズムが開花し、ニューヨークの美術は先鋭的なものへと変わった。
影響源
シュルレアリスム

若い美術家たちに大きな影響を与えたのはシュルレアリスムである。サルバドール・ダリのような潜在意識欲動)の世界を具象的に描く絵は大衆的に人気を博した。またマックス・エルンストに代表されるオートマティスムも大きな影響を与えた。ジャクソン・ポロックの床にキャンバスをおいて描く絵も、インディアンの砂絵のほかに、エルンストなどの影響が指摘されている。
表現主義と抽象絵画

「抽象表現主義」は、はじめ第1次世界大戦後のヨーロッパ絵画に使われた言葉であったが、1946年、評論家のロバート・コーツによってアメリカの美術運動にこの語が当てはめられ、普及した。「抽象」という言葉はバウハウス未来派キュビズム、その他1930年代の抽象絵画などの非具象の美学を引き継いでおり、「表現主義」という言葉はドイツ表現主義などの自己表現、激しい感情の表現を引き継いでいる。

激しい感情をキャンバスに叩きつけるようなウィレム・デ・クーニングの作風が典型的と思われがちであるが、マーク・ロスコのように単純に色面を並べる作品や、赤や黒などの単色を塗っただけのバーネット・ニューマン、アド・ラインハートらの画家が抽象表現主義のカテゴリーにくくられている。
アメリカ固有の風土

若い美術家たちはヨーロッパの前衛美術家たちだけから影響を受けたわけではなかった。彼らを育んだアメリカの国土や歴史も表現の源泉である。広い国土、抽象的なまでに地平線まで開けた風景、焦点になるものがなくどこまでも均質に均質に広がる風景など、ヨーロッパと違う巨大な国土が彼らの作品制作の意識の根底にある。

また、特に強調すべきなのは、アメリカ大陸の先住民の美術が1940年代に大きな影響を若いアメリカ人美術家らに与えたことである。大地の上に描かれるインディアン砂絵エスキモーの造形物の原始的な美など、その造形センス、大地の上に直接描くというヨーロッパの伝統的な絵画にはない手法などが、ヨーロッパの借り物でない「アメリカの美術」の形成に大きな役割を果たした。

開拓時代以降、ヨーロッパに学び続けたアメリカ絵画は、林や湖や動物といったヨーロッパ的な風景を描くことが多かった。アメリカ人はこの時代までの長い間、アメリカ固有の風景からも先住民の造型感覚からもあまり学ぶことがなくもっぱらヨーロッパを見続けていたといえる。
壁画の経験

また、1930年代には多くの若いアメリカ人美術家が、すぐ間近のメキシコで活動し1930年代にはアメリカでも展開されたディエゴ・リベラダビッド・アルファロ・シケイロスホセ・クレメンテ・オロスコらのメキシコ壁画運動に助手などの形で関与し、その壁画や大画面という形式に影響を受けた。また大不況の時代、多くの美術家が連邦政府の芸術家救済プロジェクト「連邦美術計画」(FAP)に雇われてアメリカ各地の建物の壁に絵を描くプロジェクトに従事し、大きな壁いっぱいに壁画を描く体験から大画面に描く喜びや大画面ならではの効果に目覚めた者もいる。
抽象表現主義の出現
キャンバスを「場」として

こうして、大きなキャンバスにおのおのの抽象表現を試みる美術家が続々と出現した。彼らは最大5mを超える超大型のキャンバスをしばしば使った。彼らはこの巨大キャンバスを、現実のものの姿形をそのまま引き写して描く画面とせず、大きなキャンバス布と格闘するように体をいっぱいに使って抽象的な色や形を叩きつける「場所(フィールド)」に変化させた。

具象・抽象を問わず美術に対するヨーロッパの伝統的な固定観念であった、「絵画は布や紙の上に物の形や画家の思想を描いたもの」という捉え方を打破し、絵画とは「美術家が「場」において体を動かして「描く」という行為を行った痕跡」として、その痕跡であるキャンバスを彼らはそのまま呈示した。

その巨大なスケールの中に描かれた難解で抽象的な線・形・色面は、その前に立つ者を包み込んで圧倒し、内容を理解するしないに関わらず、とにかく崇高な印象を与えた。画家は、キャンバスをイーゼルにかけて静かに描く人物から、キャンバスを相手に闘う英雄となった。

これらの抽象表現を、(ピエト・モンドリアンらの流れを汲むような)幾何学的な抽象表現である「冷たい抽象」に対し、行為や色面で感情表現をするような「熱い抽象」と呼ぶこともあった。
アクション・ペインティング


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef