抽象絵画(ちゅうしょうかいが)は、抽象芸術・抽象美術(Abstract art)のうちの一つである。狭義には、非対象絵画、無対象絵画、絶対象絵画のように、具体的な対象を写すという絵画とは異なる絵画を意味する。
広義には、ピカソのキュビスム作品など、厳密には具象であっても事物そのままの形態からは離れている絵画を含む場合もあり、また鑑賞者が具象絵画に期待するような技巧が伴わない絵画を指すこともある。ワシリー・カンディンスキー「Transverse Line - 横線」 美術史における狭義の抽象絵画は、1910年代頃にはじまった。 一般に、美術史上では、カンディンスキーもしくはモンドリアンが抽象絵画の創始者であると看做されており、その時期は1910年頃とされている。カンディンスキーのどの作品をもって最初の抽象絵画と呼ぶかについては、諸説あるが、例えば、1911年制作とされる「円のある絵」(トビリシのグルジア美術館所蔵)が挙げられる。モンドリアンの場合は、1908年制作とされる「太陽光の中の風車」が最初期の象徴的な作品である。ただし、作品に付記した年が誤っているという見方もある。初期の抽象画としては、カンディンスキーのほか、フランシェスク・クプカの絵画などもあげられる[1][2][3]。 他に、最初期の抽象絵画としては、スウェーデンのヒルマ・アフ・クリントが既に1906-07年頃に抽象絵画と見なすことのできる作品を描いている[4]。この他にはフランス(パリ)では、ロベール・ドローネー(1885年 - 1941年)、フランティセック・クプカ(1871年 - 1957年)、ロシアでは、ミハイル・ラリオーノフ(1881年 - 1964年)、アメリカでは、アーサー・ダヴ(1880年 - 1946年)などが挙げられる。いずれも、1911年頃に、抽象絵画と呼べるような作品を残している。イタリアの未来派の一員だったジャコモ・バルラも1912年には抽象表現に踏み出していた。 抽象絵画の源流は、主として「ドイツ表現主義」からと「キュビスム」からの2つの流れがある。 もっともこの二つの流れは厳密に独立していたわけではなく、互いに影響を与え合い、時には合流することもあった。例としてはドローネーがカンディンスキーをはじめとする青騎士のメンバーと交流を持っていたこと、またクレーがパリでドローネーと会い彼の美術エッセイを独訳したこと、バウハウスはカンディンスキーやクレーが参加する一方でマレーヴィチらロシア・アヴァンギャルドのメンバーやデ・ステイルのテオ・ファン・ドースブルフらとも交流をもっていたことなどが挙げられる。1930年代の抽象絵画運動である「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)」には、カンディンスキーとモンドリアンがそれぞれ加わっていた。
歴史
ヒルマ・アフ・クリント「De Tio Storsta, n°10 Alderdomen」(1907年)
ロベール・ドローネー「Le Premier Disque」(1912年?1913年)
ピート・モンドリアン「赤・青・黄のコンポジション」(1930年)
ドイツ表現主義からの流れは、カンディンスキーやフランツ・マルクなどの作品にあり、パウル・クレーの一部の作品も含めることができるかもしれない。カンディンスキーやマルクの作品は、抽象的でありつつ、有機的な形態を持っていたことに特徴がある。
キュビスムからの流れはパリの美術運動「オルフィスム」からはじまり、ドローネー、クプカ、フランシス・ピカビア( 1879年 - 1953年)などが抽象的な絵画を描いた。そしてさらにオランダのピート・モンドリアンら「デ・ステイル」のメンバーへ流れ、ロシア・ソビエトでは、抽象美術運動「レイヨニスム」に始まり「ロシア・アヴァンギャルド」の美術家であるミハイル・ラリオーノフ、マレーヴィチ、ウラジーミル・タトリンらなどへ移る。ロシア・アバンギャルドには「構成主義」「ロシア未来主義」「キューボ・フューチャリズム」「ネオ・プリミティズム」なども含まれる[5][6][7][8]。そして流れは戦間期のヨーロッパにおける「1930年代の抽象絵画運動」へ結集する。これらは、モンドリアンらを典型とする幾何学的な形態表現を特徴としている(オルフィスムでは、そこまでは至らず)。