折田彦市
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日本政治家折田 彦市おりた ひこいち

生年月日 (1849-01-27) 1849年1月27日嘉永2年1月4日
出生地薩摩国鹿児島(現・鹿児島県鹿児島市
没年月日 (1920-01-26) 1920年1月26日(70歳没)
死没地京都府京都市
出身校ニュージャージー大学
称号正三位勲二等
文学修士(ニュージャージー大学・1879年)[1]
第三高等学校名誉教授(1916年)
貴族院議員
選挙区(勅選議員
在任期間1910年12月27日 - 1920年1月26日
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折田 彦市(おりた ひこいち、嘉永2年1月4日1849年1月27日[注釈 1] - 1920年大正9年)1月26日)は、明治時代に活動した日本教育者・文部官僚。旧制第三高等学校(三高)の初代校長として知られている。その前身校も含めれば約30年間にわたって三高の校長を務め、同校の「自由の学風」を築いたとされる。目次

1 生涯

1.1 生い立ち

1.2 米国留学

1.3 教育界に入る

1.4 三高前身校とのかかわり

1.5 文部省学務局長

1.6 第三高等学校校長

1.7 退任後


2 折田彦市と「自由の学風」

3 人柄・逸話

4 系譜・家族

5 栄典

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


7 参考文献

8 関連項目

9 外部リンク

生涯
生い立ち 致遠館の学生群像。フルベッキ(中央)の右、白鞘の刀を持った岩倉具定の前に折田が写っている[5]

嘉永2年(1849年)1月4日薩摩藩士折田寧剛の四男として薩摩国鹿児島で生まれた。青年期までの名として彦市のほかに三之丞・権蔵があり、は年長であった。少年期には家族の縁に恵まれず、父は安政5年(1858年)に没し、母も慶応元年(1865年)に世を去っている。長兄の年昭に子がなかったため、その養子となっている[6]

折田は少年時に儒者の平田氏[注釈 2]に学び、次いで藩校造士館に入学した。同じ時期、造士館では2歳年上の森有礼が学んでいる。文久2年(1862年)4月、14歳の時に藩主島津茂久(のち忠義)に小姓として出仕。慶応4年(1868年)1月、茂久に従って上洛した際、選ばれて岩倉具視の御附役となった[6]。折田を岩倉に推薦したのは、長兄の年昭と親交があった西郷隆盛であるとも[8]大久保利通であるともされる[9]

折田は岩倉から厚い信頼を受けた。のちに折田が「系図」に自ら記したところによると、岩倉暗殺の風説が流れた際に随伴して警護に当たったことがあったという[10][11]戊辰戦争の際には岩倉の伝令役として、東山道鎮撫総督・副総督になった岩倉の二子(次男の岩倉具定と三男の岩倉具経)との連絡にあたり、戦闘に参加したこともあったらしい[11]

岩倉具視の意向で兄弟が総督・副総督を解任されると、折田は岩倉邸を離れ、神戸の洋学塾「水本塾」で英語を学んだ[12][13]。岩倉も洋学の必要を認めており、明治元年(1868年)9月に具定・具経を折田に託して長崎に遊学させた。岩倉兄弟と折田は、佐賀藩が長崎に設立した致遠館に入学し、グイド・フルベッキに学んだ。フルベッキは長老派教会のオーバーン神学校(英語版)を卒業、アメリカ改革派教会(英語版)の宣教師として来日し、当時は長崎の致遠館と済美館で英語を教授していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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