批判法学
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批判法学(Critical Legal Studies)とは、1970年代にアメリカにおいて興隆した学派・運動である[1]。法の不確定性や裁判所の欺瞞を強調したリアリズム法学から強く影響を受けているが、カール・マルクスジャック・デリダ等の大陸哲学を大々的に摂取した点等に大きな違いがある[2]。批判法学は、その名の示すとおり、当時の主流派の法学、すなわち「リベラル・リーガリズム(Liberal Legalism)」[3]を批判するものである。しかしながら、その批判の射程は法学にとどまるものではなく、社会理論一般に対して向けられたものであり[4]、総じて左派的な社会の形成を試みるためのものだと解される[5]
歴史
第一世代

自覚的な学派・運動としての批判法学は、1977年に開催された批判法学会議(the Conference on Critical Legal Studies)の開催によって形成された。初期の形成にあたり、中心となったのは、ディビッド・トゥルーベック(David Trubek)とダンカン・ケネディ(Duncan Kennedy)の両名である[6]。トゥルーベックは「法と社会」研究(Law and Society)や「法と開発」研究(Law and Development)における気鋭の研究者の一人であり、一方ケネディは、ベトナム反戦運動期において学生時代を過ごし、フランス留学によって大陸哲学を摂取してきていた人物であった。彼らの人脈が批判法学の基礎となったことから、初期の批判法学は、彼らの知的背景に強く影響を受けることになった[7]
「法と開発」研究の失敗

「法と社会」研究から派生する形で形成されてきた「法と開発」研究は、1960年代に、アメリカ合衆国国際開発庁の下で、アフリカの開発支援に取り組んでいた。彼らの議論は、マックス・ヴェーバータルコット・パーソンズらの社会理論の強い影響の下、単線的な発達史観を前提にしており、途上国に対してアメリカといった先進国の法制度を輸出し整備することによって、途上国の近代化を加速することができるというものであった。トゥルーベックは、「法と開発」研究の第一人者としてアフリカの支援に携わっていたが、そこで挫折を味わうことになる。すなわち、アメリカ的な法制度の輸出は、近代化をもたらし、人々の自由を確保するどころか、逆に権威主義体制に利用され、人々の抑圧に利用されたのである[8]。こうした経験から、トゥルーベックは、アメリカの法制度の限界や自明としている前提を見定める必要性に駆られ、批判法学の形成へと向かうことになる。
新左翼の影響

1960年代は、世界的な若者の叛乱によって特徴づけられる時代でもあり、アメリカはそうした叛乱の中心地の一つであった[9]。合衆国憲法等に掲げられている自由や平等は単なるお題目に過ぎないものとなってしまっており、人種差別や女性差別が横行していると、当時の多くの若者は考えた。さらには、ベトナム戦争が勃発し、既存の法制度や政治体制によっては、こうした行いを止めることができなかったということに対する絶望感が広がり、デモといった直接行動へと彼らを駆り立てていくことになる。1960年代は、オールド・リベラルに代わる、新たな左翼(新左翼)の在り方が模索される時代であった。ケネディの世代は、こうした空気の中で法学を学んだのであり、法制度に対する不信はどこに根拠づけられ、またどのように理論化されうるのかについて思考せざるをえなかった。その結果が、第一回の批判法学会議で発表された、批判法学の金字塔的論考の一つである、「私法裁決における形式と実質」[10]であった。
第二世代

1980年代中頃になると、批判法学内部の多様化が大きく進行することになった。
右派の台頭

その原因のひとつは、10年の月日が経過し、背景を共有しない者が増加したことである。たとえば、第一世代の主たる敵は、オールド・リベラルであったが、いまや時代は代わり、シカゴ学派に影響を受けた「法と経済学」(Law and Economics)といった右派的な議論が、法学内に台頭しつつある。ゆえに、批判法学が批判すべき対象、より卑近な言い方をすれば、敵と味方をもう一度考え直す必要があると、彼らは主張した[11]
アイデンティティ政治

多様化を進行させた、より大きな要因として、批判法学内の多くの論者がアイデンティティ政治へと向かっていったことが挙げられる。すなわち、批判法学の中心となった人物の多くが「白人の男性」であり、女性や有色人種の目線が十分に取り入れられていないことに対する不満が、批判法学内で噴出した。批判法学会議においても、部会内での争いが激化し、内部での論争が目立つようになった[12]
第一世代の変容

第二世代の議論等に影響を受けたこと等により、第一世代内においても、理論的な分裂が見られるようになった。たとえば、法学の内的批判を重視したケネディに対し、批判法学の理論的支柱の一人であるロベルト・アンガーは、より大きな制度構築の問題へと焦点を移していくべきだと主張した[13]。こうした結果、学派・運動としての結束が弱まることになり、1992年を最後に、アメリカにおいて批判法学会議は開催されていない。
第三世代

このように、運動としての批判法学は現在弱体化しているが、理論として消失しているわけではない。理論の根幹となる部分はフェミニズム法学や批判的人種理論などに引き継がれ[14]、またアメリカ外の批判法学も形を変えつつ誕生・発展している[15]。加えて、以上のような分裂・論争の中から引き継ぐべき、あるいは刷新していくべきものは何であるかを継続して思考する論者は、少なからず存在している。アンガーの下で学んだ、ある日本の法社会学者は次のように述べている。「批判法学的傾向のいわば第三世代にあたる私たちの所作はいかにあるべきか――。 ・・・プラグマティックに批判的かつ創造的に在るために、私たちは〔批判法学における〕巨人たちの共闘・対立・分裂にどのように向き合うべきか。結局、徹底的に Ungerianたれ、ということであろう。すなわち、この分裂を――媒介するのではなく――乗り越えねばならない」[16]
理論・主張・類型
批判法学の最大公約数

先述したように、批判法学は多様性を内包した学派・運動であるが、共通項を括り出す試みもなされている。「議論の便宜のため」であると留保しつつ、法哲学者である中山竜一は次の5つの要素(主張)を挙げている[17]

(a)法や権利といった概念はそもそも本質的に不確定性をはらむものである。

(b)裁判をはじめとする法的実践は本来的に「政治」にほかならない。

(c)制定法や判例に含まれる法的諸原理はその根底の部分で互いに矛盾している。


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