扶桑
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この項目では、中国の伝承について説明しています。その他の用法については「扶桑 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。扶桑国

扶桑(ふそう、扶木・扶桑木・扶桑樹とも)は、中国伝説で東方の果てにあるとされる巨木である。

その巨木の生えている土地は扶桑国と呼ばれる。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば『扶桑略記』は平安時代の私撰歴史書の一つである。扶桑図
概説

古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。太陽や天地にまつわる巨木としては若木建木などが共に記述として残されている。

古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬?山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬を募らせてきたという[1]

のち、『梁書』が出て以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替されており、この場合の「扶桑」とは実在のどの植物のことかをめぐって一つの論点となる(後述)。

国号としての「扶桑国」は、尊称とする説[注 1][要出典]がある。
文献
山海経

山海経』によると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るという。下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在K齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝


(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある) ? 『山海経』海経第4巻 第9 海外東經[2]大荒之中 有山名曰?搖?羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰温源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏


(大荒(辺境)の中に?搖?羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみなを載せている) ? 『山海経』海経巻9 第14 大荒東經[3]

烏が乗る10の太陽という話は、三足烏の神話と共通である。

黒歯国の位置については『山海経』には「青丘国」の北というのみだが、『梁書』に其南有侏儒國 人長三四尺 又南K齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至


(南に身長3?4(70?90cm、1尺≒23cm)の民の国があって、その南に黒歯国がある。から4000余里。船で1年で着く) ? 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳[4] 東夷条 倭

とあり、日本から南に4000余里(1700km余)ということになる。が、魏志倭人伝をみると女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至


(女王・卑弥呼国から4000余里に侏儒国がある。また裸国と黒歯国があり、東南に船で一年で着く) ? 『三国志』魏書東夷伝[5]倭人条(魏志倭人伝[6]

とあり、4000余里(1700km余)というのは邪馬台国から侏儒国までの距離で、そこからさらに東南へ船で1年かかるのが黒歯国である。『梁書』は魏志倭人伝を要約する際に編集ミスを起こしているのがわかる。
淮南子

淮南子』には多くの扶桑(榑桑)に関する言及が見られる。日出于暘谷、浴于咸池、拂于扶桑、是謂晨明。登于扶桑、爰始將行、是謂朏明。 ? 天文訓[7] 暘谷榑桑在東方。 ? ?形訓[8] 朝發榑桑、日入落棠。 ? 覽冥訓[9]
説文解字?、日初出東方湯谷所登榑桑。?木也。象形。 ? 巻6、?部榑、榑桑、神木。日所出也。从木?声。 ? 巻6、木部
史記正義

張守節『史記正義』では、海外經云 湯谷在K齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯


(「海外経」によると、黒歯の北に湯谷があり、その上に扶桑木があり、水中で10の太陽が水浴びをする。張揖によると、そこが日の出の場所である。許慎によると、(そこの海水は)湯のように熱い) ? 『史記』巻114司馬相如列傳 第57 「湯谷」の注

と、「海外経」(『山海経』海外4書)などから引用されている。
宋書

宋書』巻22志第12楽4(楽志)「白紵舞」歌の1つで東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯増城


(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて増城に戯る) ? 『宋書』巻22志第12樂志四[10] 載及 白紵舞 歌詩三篇之二

と、対句で崑崙と対にされ地名のように扱われている。タイトルの「(白)紵」(カラムシ)というのはに産する織物である。
梁書

梁書』によると、慧深(けいしん)が永元元年(499年)に扶桑という国からへやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余(3000km余、漢代の里 ≒ 434m、以下換算にはこの値を使う)に文身国が、その東5000余里(2200km余)に大漢国があり、大漢国の東2万余(8700km余)に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。(中略)扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制??。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、?賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」慧深又云「扶桑東千餘里有女國(以下略)


(扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年?527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)
永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。
「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑のに似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。のようで赤く、その績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。
南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上にを撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。
国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、年は青、年は赤、年は黄、年は白、年は黒である。


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