手島右卿
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手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年明治34年)11月3日 - 1987年昭和62年)3月27日)は、日本書家文化功労者高知県出身。本名・南海巍(なみき)。昭和の三筆の一人。ニックネームは、「ライオンの右卿」。

妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。宗教家岡田晃弥は子。元プロサッカー選手でガイナーレ鳥取GM岡野雅行は孫。

1915年大正4年)、川谷尚亭の門をたたき、師逝去の後は1935年(昭和10年)に上京、比田井天来の門下となる。その後、大日本書道院第1回展では天来の単独審査を手伝うなど、次第に頭角を現し、以後日展の参事や審査員、文部省指導書編集委員などを歴任。

常々、「書は人間の霊知の所産である」として、東洋的な精神性と現代感覚を融合した「象書」を創始。空海などの古法を基に確立された小字数書の能書家である。1958年(昭和33年)、ブリュッセル万国博覧会「近代美術の50年展」に日本代表として富岡鉄斎梅原龍三郎、井上有一とともに指定出品された「抱牛」は、最高殊勲金星を受け、一躍世界の注目を集め、書道芸術の国際的評価を高めるきっかけとなる。1985年(昭和60年)、中国・北京革命歴史博物館にて「日本手島右卿書法展」を開催、観客11万人を動員。

専修大学教授、日本書道専門学校初代校長。高知県名誉文化賞・安芸市名誉市民・文化功労者

片山子鶴など多くの弟子が書き人として活躍する。
目次

1 略歴

2 人物

3 著書

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴

1901年(明治34年)高知県安芸郡安芸町(現安芸市)に生まれる。本名、南海巍(なみき)

1915年(大正4年)川谷尚亭の門に入る。

1933年(昭和8年)南海書道会を興し、競書誌「南海書聖」を主宰する。

1935年(昭和10年)上京。比田井天来の門に入る。書道芸術社同人に推される。

1937年(昭和12年)第1回大日本書道院展で特別賞を受賞。同院参事、審査員、書学院教授に任じられる。

1939年(昭和14年)蒼龍社を結成する。「尚亭先生書話集」を編集発刊する。

1942年(昭和17年)興亜書道展審査のため南京へ出張。

1946年(昭和21年)終戦後直ちに書壇再建運動に奔走。(財)日本書道美術院結成に参画、理事企画部長となる。

1947年(昭和22年)書道芸術院結成。総務理事となる。

1948年(昭和23年)毎日新聞社主催第1回日本総合書芸展(現毎日書道展)が開かれ、運営委員、審査員となる。第4回日展に第五科「書」が新設され、委嘱出品。

1950年(昭和25年)日本書作院結成。副会長に推される。第6回日展審査員。

1951年(昭和26年)(社)日本書道連盟設立。理事となる。

1952年(昭和27年)独立書道会(現独立書人団)を結成。代表となる。

1955年(昭和30年)欧州巡回「墨の芸術展」と、翌年のアメリカ巡回展に出品。

1957年(昭和32年)朝日新聞社主催第1回「現代書道二十人展」に依嘱出品(以降連続出品)、サンパウロ・ビエンナーレ展に日本代表書家として、初めて参加出品。

1958年(昭和33年)ブリュッセル万国博覧会「近代美術の五十年展」に日本代表として特別指定出品。最高殊勲金星を受賞。

1959年(昭和34年)「右卿臨書集成」を発刊する。

1961年(昭和36年)訪中書道使節として、中国各地を歴訪。

1966年(昭和41年)専修大学文学部が新設され、初代教授に就任。日本書道専門学校を創設して、初代校長となる。

1967年(昭和42年)東京三越本店で個展開催。同展に対し、翌年書道界初の「毎日芸術賞」が贈られる。

1969年(昭和44年)ベルギー国主催「右卿とその一門展」開催。外務省第1回訪欧文化使節団長として渡欧。高知県安芸市名誉市民に推挙される。

1970年(昭和45年)講談社刊「現代書事典」の「少字数・象書篇」を監修。日本万国博覧会(大阪)世界美術館に「飛」を指定出品する。

1971年(昭和46年)毎日新聞社主催による「書業五十年手島右卿自選展」を東京で、翌年大阪で開催。

1973年(昭和48年)東京で「手島右卿名筆展」を、続いて翌年愛知と高知で個展を開催。

1975年(昭和50年)パリで「右卿とその一門展」を開催。外務省第2回訪欧文化使節団長として渡欧。

1976年(昭和51年)東京で「右卿新作小品展」を開催。勲三等旭日中綬章を受ける。

1981年(昭和56年)静岡で「巨匠手島右卿書作展」を開催。

1982年(昭和57年)アメリカ、ミネソタ州セントポールイリノイ州エバンストンで「手島右卿とその一門展」を開催。文化功労者顕彰を受ける。

1985年(昭和60年)中国、北京革命歴史博物館中央大正庁で日本人として初の「日本手島右卿書法展」を開催。11万人を動員。

1987年(昭和62年)鎌倉市で没する。(享年85)

人物

もともとは
画家志望だった。

一度決めたら曲げない土佐いごっそうの気質だった。

シャツのボタンを自分で止められないなど一見不器用だが、筆を持つとその筆が魔物のように動きだす。普段は激昂しやすいが、生み出される作品は繊細かつ緻密であり、弟子たちや周りもそのギャップに魅了された。

無類の酒好きとして知られる。朝まで飲み歩くこともしばしばで、家計は常に火の車であった。

気性が大変荒く、相手が誰であろうと意に沿わぬことははっきりと主張した。豊道春海などとも議論を交わし、口喧嘩に発展することもあったという。春海も右卿の実力を認め、1971年(昭和46年)、豊道春海賞を贈った。右卿は最初は断ったが、春海の遺言であることを知り、これを受賞した。

「書は音楽でもある」と発言したことで有名。

空海に心酔し、空海の書法を好んで研究した。

筆の数は他の大家と比べると少なく、20本ほどの良質の筆を生涯大切に使用した。

著書

右卿臨書集成 全11巻 白亜書林、1956-1957

右卿唐詩帖 五禾書房、1958

手島右卿 筑摩書房、1971(現代書道教室)

手島右卿書法 尚学図書、1980

臨書のすすめ 日貿出版社、1986

手島右卿臨書集 巻1?2 西東書房、1987

不滅の書人手島右卿と語る 駒井鵞静 雄山閣出版、1989

手島右卿大観 全10巻 独立書人団、1997

手島右卿大観 別巻 1?2 独立書人団、2000

手島右卿大観 第2期 第11?20巻 独立書人団、1998-1999

手島右卿大観 第3期 第21?30巻 独立書人団、1999-2000

参考文献

この節には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2014年10月)


手島泰六『右卿伝説』高知新聞社、1991年

手島泰六『右卿幻夢』中野出版企画、1993年

手島泰六『右卿復活』高知新聞社、1998年

手島泰六『右卿外伝』高知新聞社、2004年

関連項目

書展

日本の漢字書家一覧

外部リンク

『手島右卿』 - コトバンク

(財)独立書人団

日本書道専門学校

典拠管理


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