手宮線
小樽市内に保存されている手宮線の線路
(2005年7月)
概要
現況廃止
起終点起点:南小樽駅
終点:手宮駅
駅数2駅(廃止時)
運営
開業1880年11月28日 (1880-11-28)
旅客営業廃止1962年5月14日
廃止1985年11月5日 (1985-11-5)
所有者官営幌内鉄道→北海道炭礦鉄道→鉄道作業局→帝国鉄道庁→鉄道院→鉄道省→運輸通信省→運輸省→日本国有鉄道(国鉄)
路線諸元
路線総延長2.8 km (1.7 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化全線非電化
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
0.0南小樽駅
1.1色内仮乗降場 -1962
2.8
0.0*
手宮駅
0.7*桟橋駅 -1901
手宮線(てみやせん)は、北海道(後志支庁)小樽市の南小樽駅から手宮駅を結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(貨物線)である。北海道で最初の鉄道(官営幌内鉄道)開業区間の一部で[1]、石炭や海産物の積み出しで賑わったが、1985年(昭和60年)11月5日に廃止となった[新聞 1]。
旧手宮鉄道施設(現・小樽市総合博物館本館)は国指定の重要文化財[1]、線路は保存されて日本遺産「炭鉄港」の一部となっているほか、散策イベントや観光にも利用されている[新聞 2](後述)。 北海道では最初の鉄道[注釈 1]である官営幌内鉄道(手宮駅 - 札幌駅 - 幌内駅)の一部として1880年(明治13年)11月28日に開通した。官営幌内鉄道は1889年(明治22年)12月11日に北海道炭礦鉄道に譲渡された後、鉄道国有法によって1906年(明治39年)10月1日に買収、国有化された。 1958年(昭和33年)に旅客列車の気動車化を実施し、1959年(昭和34年)9月22日のダイヤ改正時点では9往復が運行されていた。利用客減少のため、1961年(昭和36年)10月1日のダイヤ改正(サンロクトオ)で旅客列車は蒸気機関車牽引の客車列車2往復のみとなり、翌1962年(昭和37年)5月14日を最後に旅客営業が廃止された[新聞 3]。 その後も貨物輸送は続けられたが、輸送量の減少により1985年(昭和60年)8月下旬から貨物列車の運行がなくなり、同年11月3日・4日にさよなら運転として臨時列車「さよなら手宮線手宮号」が運行され、翌日付で廃止された[新聞 1]。 その後、廃線後ではあるが線路が函館本線とつながったままであることを活かし、手宮駅跡に開館した当時の北海道鉄道記念館(現在の小樽市総合博物館)に静態保存されていた蒸気機関車C62 3を復活のため引き出した時に、配給列車として列車が運転された実績がある。 路線の跡地は散策路として整備されている[1](後節参照)。 駅名駅間 駅名駅間 1985年3月14日、国鉄の営業路線で当時最短だった小松島線 (1.9 km) が廃止されたことで、当路線が国鉄の最短営業路線となったが、8か月後に当路線も廃止となった。当路線の廃止後は、新湊線(当時3.6 km)が最短となり、国鉄分割民営化を迎えている[注釈 4]。 なお、旅客営業を行う路線では、小松島線廃止後は香月線(3.5 km、1985年4月1日廃止)→桜島線(当時4.0 km)と変遷した。 現在、廃線跡のほとんどが保存されている。踏切も残っており、踏切での一時停止不要を知らせる看板もある。小樽市は廃線跡のうち、約1.6 kmを線路や遮断機などの遺構を残しながら歩きやすく舗装し、散策路として整備している。寿司屋通りから中央通りまでの510mは、2001年(平成13年)度に用地をJR北海道から取得し、同年度中に完成した。その後、中央通りから小樽市総合博物館(鉄道・科学・歴史館)までの約1,160 mについても2006年(平成18年)度に用地を取得し、2013年(平成25年)度から4年間の計画で整備され、2016年(平成28年)10月までに最後の147 m の工事が完成し、同年11月6日に開通記念式典を行った[新聞 4]。小樽市総合博物館は手宮駅跡を本館(鉄道・科学・歴史館)として活用している[新聞 4]ほか、かつて手宮線で使われていた蒸気機関車 (SL) や日本銀行の現金輸送車を展示している[8]。また、手宮線をLRTとして復活する提案が地元の「小樽まちづくり協議会」を中心になされている。 2019年(令和元年)には、手宮線の散策路整備が、小樽がらす市や小樽雪あかりの路などイベントにも活用され、小樽らしい景観づくりに繋がっていると評価されたことで、第23回都市景観賞を受賞した[新聞 5][9]。
路線データ(廃止時)
管轄:日本国有鉄道(国鉄)
区間(営業キロ):南小樽駅 - 手宮駅間 2.8 km
軌間:1,067 mm(狭軌)
駅数:2
複線区間:なし(全線単線。一時期は複線だった)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:タブレット閉塞式
歴史
1880年(明治13年)
10月24日:手宮桟橋 - 熊碓第4隧道間で試運転[注釈 2][3]。
11月28日:官営幌内鉄道が手宮駅 - 開運町駅( - 札幌駅)間の鉄道が開業。手宮・開運町の各駅を新設。
1881年(明治14年)5月22日:開運町駅を住吉駅に改称。
1889年(明治22年)12月11日:官営幌内鉄道が北海道炭礦鉄道に譲渡。
1893年(明治26年)11月6日:手宮駅 - 桟橋駅間の貨物線が開業。(貨)桟橋駅を新設。
1900年(明治33年)6月11日:住吉駅を小樽駅(初代)に改称。
1901年(明治34年)11月6日:手宮駅 - 桟橋駅が廃止。(貨)桟橋駅を廃止。
1903年(明治36年)8月21日:手宮駅 - 室蘭駅間に急行列車が運転開始。
1904年(明治37年)7月1日:色内駅 - 手宮駅間の線路を陸側に移転、使用開始[注釈 3]。
1905年(明治38年)8月1日:北海道鉄道(初代)の小樽駅(初代、現・南小樽駅) - 高島駅(現・小樽駅)間開業。
1906年(明治39年)10月1日:北海道炭礦鉄道の小樽駅 - 手宮駅間が国有化され、国有鉄道に移管。
1907年(明治40年)7月1日:全線の旅客営業を休止。
1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道線路名称制定に伴い、小樽駅 - 手宮駅間が手宮線となる。
1910年(明治43年)頃:全線複線化。
1912年(大正元年)
8月6日:色内仮停車場を新設。
8月11日:全線の旅客営業を再開。
1914年(大正3年)12月1日:色内仮停車場を休止。
1920年(大正9年)
6月1日:色内仮停車場を再開。
7月15日:小樽駅を南小樽駅に改称。
1943年(昭和18年)
5月1日:色内を仮停車場から駅へ変更。
10月1日:全線の旅客営業を休止、色内駅を休止。
11月20日:全線単線化[7]。
1948年(昭和23年)11月10日:全線の旅客営業を再開。
1949年(昭和24年)
6月1日:公共企業体日本国有鉄道(国鉄)に移管。
9月1日:色内仮乗降場を新設。
1962年(昭和37年)
5月14日:全線の旅客営業を廃止[新聞 3]。
5月15日:色内仮乗降場を廃止。
1985年(昭和60年)11月5日:全線廃止[新聞 1]。
駅一覧
全駅北海道(後志支庁)内に所在
事業者名、自治体名は廃止当時のもの。
仮乗降場には営業キロが設定されていなかった。括弧内に実キロを記す。
南小樽駅 - 手宮駅間
営業
キロ累計
営業
キロ接続路線・備考所在地
南小樽駅-0.0日本国有鉄道:函館本線小樽市
色内仮乗降場-(1.1)1962年(昭和37年)5月15日廃止
手宮駅2.82.8北海道炭礦鉄道:北海道炭礦鉄道(貨物線)※桟橋方面
手宮駅 - 桟橋駅間
営業
キロ累計
営業
キロ接続路線所在地
手宮駅-0.0北海道炭礦鉄道:北海道炭礦鉄道 ※南小樽方面小樽区
(貨)桟橋駅0.70.7
国鉄最短路線記録
線路跡の現況
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 北海道では当路線より先に、1869年(明治2年)に泊村茅沼炭山より海岸まで軌道(茅沼炭鉱軌道)が敷設されているが、牛力での貨車牽引だったため「鉄道」とはみなさないとされるのが一般的である。
^ 『新日本鉄道史』下巻(1973年再版)の2頁によれば、銭函 - 手宮間で試運転となっている[2]が、『北海道鉄道百年史』上巻などでは10月24日は熊碓村第4隧道(現・朝里駅より小樽駅側) - 手宮桟橋間での試運転、11月11日銭函 - 手宮間仮運転と記述。
^ 色内を中心とする1904年(明治37年)の小樽市内大火災前後に北海道炭礦鉄道が手宮-色内間の移転用地を買収していたことが、資料の図中予定線内に列記された「炭礦」の記述から読み取れる[4]。1904年(明治37年)同年3月より工事着手、6月竣工、7月1日より使用開始[5][6]。
Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef