手倉森 誠
名前
カタカナテグラモリ マコト
ラテン文字TEGURAMORI Makoto
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1967-11-14) 1967年11月14日(56歳)[1]
出身地青森県三戸郡五戸町[1]
身長174cm[2]
体重78kg[2]
選手情報
ポジションMF
ユース
1983-1985青森県立五戸高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1986-1992住友金属
1992鹿島アントラーズ
1993-1995NEC山形
代表歴
1986[3] 日本ユース1[3] (0[3])
監督歴
2008-2013 ベガルタ仙台
2014-2016 日本 U-23
2019-2020 V・ファーレン長崎
2021 ベガルタ仙台
2022 BGパトゥム・ユナイテッドFC
2023 チョンブリーFC
2024- BGパトゥム・ユナイテッドFC
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
手倉森 誠(てぐらもり まこと、1967年11月14日 - )は、青森県五戸町出身の元サッカー選手、サッカー指導者(S級指導者ライセンス所持)。手倉森浩は双子の弟にあたる。 青森県立五戸高等学校3年時、第64回全国高等学校サッカー選手権大会に出場しベスト8に進出[1]。卒業後、日本サッカーリーグ2部の住友金属に入団。1986年にユース日本代表に選出され、AFCユース選手権1986 (予選)に出場した[3]。なお、住友金属(1992年にプロ化して鹿島アントラーズ)には1992年まで在籍した。 住友金属時代はパチンコなどギャンブルに明け暮れていたといい、酷い時にはパチンコ店に手倉森を探しに来たジーコの目から逃れるため、パチンコ台の下に隠れたこともある[4]。鹿島から戦力外通告を受けた1992年暮れには、やけになって中山競馬場に足を運び、全財産を2日で使いきってしまった(金額については600万円とも1200万円ともされている)[5][6]。結果として無一文となったが、翌1993年にNEC山形サッカー部(現:モンテディオ山形)から声がかかり移籍。手倉森はこのことを教訓に、以後ギャンブルはきっぱり止めた[5]。 1995年に引退。当時、山形の監督だった石崎信弘に勧められ同年指導者となり[7]、モンテディオ山形や大分トリニータのコーチを歴任した。 2004年からベガルタ仙台のコーチとなる。2007年よりヘッドコーチを歴任。また同年より手倉森浩が仙台のスタッフに加わった。 2008年、望月達也の監督辞任を受け、監督に就任。監督就任当初からAFCチャンピオンズリーグ(ACL)の出場を目標に掲げる[8]。この年のJ2リーグ戦で3位の成績を残し、J1・J2入れ替え戦に出場するもジュビロ磐田に1分1敗と負け越し、J1昇格はならなかった。 2009年、J2リーグ優勝を果たしチームを7シーズンぶりのJ1復帰に導く。
来歴
現役時代
指導者時代