戸部町
町丁
戸部町から見る、みなとみらい21地区の高層ビル群
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度27分12秒 東経139度37分27秒 / 北緯35.4534度 東経139.624042度 / 35.4534; 139.624042
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 横浜市
行政区西区
人口情報(2023年(令和5年)4月30日現在[1])
人口4,121 人
世帯数2,261 世帯
面積([2])
0.135 km²
人口密度30525.93 人/km²
設置日1889年(明治22年)4月1日
郵便番号220-0042[3]
市外局番045(横浜MA)[4]
ナンバープレート横浜
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戸部町(とべちょう)は、神奈川県横浜市西区の町名である。古くは戸部村で、1859年(安政6年)に戸部町へ改称、現在も一部が戸部町として残っており、現行行政地名は戸部町1丁目から戸部町7丁目(字丁目)。住居表示未実施区域[5]。 旧町域に戸部民部というものが居住していたことに由来すると伝えられる[6]。武蔵国久良岐郡に属し、戦国時代は戸部郷、江戸時代は戸部村と呼ばれ、江戸幕府直轄領であった。文政年間(1818年 - 1829年)に村内の野毛浦が野毛村(現・野毛町)として分立する[注釈 1]。 1859年(安政6年)、横浜港が開港すると横浜道が村内に開削され、横浜港を管轄するための神奈川奉行所、役宅、監獄(横浜刑務所の起源)など官庁機構が集中。また、戸部村内にも町屋が形成され、戸部町と改称した。 横浜の市街地の拡大とともに1870年(明治3年)に宮崎町、1872年(明治5年)に伊勢町、1876年(明治9年)には老松町および月岡町が相次いで起立して分離した。また、鉄道(のちの東海道線)敷設のために海岸部が埋め立てられ、桜木町などが成立している。1878年(明治11年)の郡区町村編制法で、戸部町のうち既に市街化の進んでいた横浜道沿いの区域が伊勢町や宮崎町、野毛町などともに横浜区の一部となり、1889年(明治22年)の市制施行で横浜市戸部町となった。 戸部町の残存区域は郡区町村編制法により再び久良岐郡戸部町となり、1889年(明治22年)の町村制施行で久良岐郡戸太村(とだむら)の大字戸部となった。戸太村は1895年(明治28年)に町制を施行して戸太町となり、1901年(明治34年)に横浜市に編入された。その際、既存市域内に既に戸部町があったことから、旧戸太町大字戸部は西戸部町と改称された。横浜市編入後、数次の市区改正および住居表示の実施により新町が起立・分離し、現在「西戸部町」として残るのは編入当時の西戸部町のごく一部である。 旧町域は西区の南に位置し、南から西にかけては洪積台地の野毛山、北は石崎川を隔てて平沼、東は桜木町やみなとみらいに隣接する。 2023年4月30日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
歴史
地理
世帯数と人口
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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