戸籍
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戸籍(こせき)とは、(こ/へ)と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。

かつては東アジアの広い地域で普及していたが、21世紀の現在では日本中華人民共和国中華民国台湾)のみに現存する制度である。
概要

古代以来の中国華北社会では(こ)と呼ばれる形態の緊密な小家族が成立し、これが社会構造の最小単位として機能していた。そのため政権が社会を把握するために個々の戸の把握が効果的であり、支配下の民の把握を個人単位、あるいは族的広域共同体単位ではなく、戸単位で行った。この戸単位の住民把握のために作成された文書が戸籍である。中華王朝や漢民族世界が華北から拡大しても、政権の民衆把握は戸籍を基礎として行われ、日本、朝鮮半島国家など周辺地域の国家でも戸籍の制度は踏襲された。

日本では律令制を制定して戸籍制度を導入した当時(「古代の戸籍制度」参照)、在地社会の構造は、中国大陸の華北のように戸に相当する緊密な小家族集団を基礎としたものではなかった。平安時代になって律令制衰退後、朝廷による中央政府が戸籍によって全人民を把握しようとする体制は放棄され、日本の在地社会の実情とは合致しなかった戸籍制度は、事実上消滅した。地域社会の統治は現地赴任の国司筆頭者(受領)に大幅に権限委譲し、さらに受領に指揮される国衙では資本力のある有力百姓のみを公田経営の請負契約などを通じて把握した。彼らを田堵負名とし、民衆支配はもっぱら彼ら有力百姓によって行われるようになった。その後、上は貴族から下は庶民に至るまで、家(いえ)という拡大家族的な共同体が広範に形成されていき、支配者が被支配者を把握しようとするとき、この自然成立的な「家」こそが把握の基礎単位となった。

全国的な安定統治が達成された徳川時代幕藩体制下でも、住民把握の基礎となった人別帳は、血縁家族以外に遠縁の者や使用人なども包括した「家」単位に編纂された。明治時代になると、中央集権的国民国家体制を目指すため、「家」間の主従関係、支配被支配関係の解体は急務であった。戸籍を復活させて「家」単位ではなく「戸」単位の国民把握体制を確立し、「家」共同体は封建的体制下の公的存在から国家体制とは関係のない私的共同体とされ、「家」を通さずに国家が個別個人支配を行うことが可能となった。

このように戸籍制度の復活は封建的な主従関係、支配被支配関係から国民を解放するものであったが、完全に個人単位の国民登録制度ではないため、婚外子、非嫡出子問題、選択的夫婦別姓問題などの「戸」に拘束された社会問題も存在する。これに対し、国民主権時代の現代では、より個人が解放された制度を目指して、戸籍制度を見直す議論も存在する。これらのうち、婚外子・非嫡出子問題については、2013年9月4日、相続において婚外子を差別する民法の規定が違憲であるとの判断を最高裁判所が下した[1]
各国の戸籍制度

戸籍制度は東アジアで戸と呼ばれる中華文明圏で成立した家族集団の認定を基礎とする、他地域に存在しない特有のものである。

近代以降、国民・住民の把握は国家により、個人単位あるいは家族集団単位で行われている。

欧米でもアングロサクソン系国家では個人単位、大陸系国家では家族登録制度を採用する傾向がある。特にアメリカ合衆国イギリスオーストラリアでは国家による家族登録を行わない伝統を持ち、戸籍のような家族単位の国民登録制度は存在しない。社会保障番号(Social Security Number)制度はあるが、これは年金の加入・支給を管理するため、つまり日本における基礎年金番号に相当するもので、戸籍のようなものは存在せず、結婚などの登録も役所の住民登録で済まされる。多くの州では居住地でなくとも婚姻届を受理する。「国民識別番号」も参照
中国
中華人民共和国詳細は「中華人民共和国の戸籍制度」を参照

中華人民共和国では、戸籍を「戸口」といい、全ての人民は機関・団体・学校・企業など、「単位」と呼ばれる組織のいずれかに属するようになっている。「単位」の所在地により、俗に城市戸口(都市戸籍)と農村戸口(農村戸籍)とに表現が区分される。

改革開放以前、住居分配、初等中等教育、医療、食料配給などは基本的に単位ごとになされ、これらを享受できない本籍地以外の場所での生活は、事実上、不可能であった。改革開放以降、食料配給の廃止や外資企業の出現による単位への所属が流動化、インフラ設備の向上による流通の発展と第3次産業の発展、農村部経済の破綻と沿岸都市部での労働者需要の増大による「民工潮」(盲流現象)などから、本籍地以外でも社会的サービスを受けられるようになったが、依然として初等中等教育への就学は基本的に不可能で、医療では医療費面で差別があり、信用度の問題で銀行からの融資を受けられないことや、福利厚生費を企業が負担しなければならないので就職が難しいなどの問題がある。

戸口の移動は、他省への大学進学、大学卒業で国家機関や団体、大企業などへの就職による移動が基本で、最近では多額納税者や、小都市では住宅購入で戸籍の移動を認める地方政府もある。以前でも金銭を払うことで、農村から城市への戸口の移動が可能であった。戸口を記した「戸口簿」は中華人民共和国公安部中国の警察)が管理している。

共産党政権下の中国では、戸口簿の他に、全人民一人一人に「人事?(档)案」がある。これは先祖の階級をもとにした「本人成分」から始まり、家族構成、学校成績、党歴、就職、結婚、言動、旅行歴、交友関係、犯罪歴など、出生時から現在までの個人情報の全てが書き込まれている。人事档案は単位の共産党人事部、もしくは地方共産党支部の人事局や労働局が厳重に管理している。非公開で共産党員の担当官以外は閲覧出来ない。計画経済が衰退して資本主義経済を中国経済に取り入れて以降は(社会主義市場経済)、進学や就職の統制が無くなり、住民の移動の反映も完全に追跡しなくなったため事実上形骸化している。

中華人民共和国の戸籍制度は中華人民共和国の多くの差別的な政策が実施された根拠である。例えば、教育の面では、異なる都市の戸籍を持つ学生は、不平等な競争に直面している。北京、上海などの大都市の戸籍を持つ学生は、戸籍の優位で他の都市の学生の点数より低い(現在一部の省と市の大学入試は統一試験ではない)で地元の大学に入学することができる。義務教育の学区制度は、同じ都市の戸籍が重点学校と一般学校の学区にある学生に対して、教育資源は大きな差異がある。

2014年7月30日中国国務院は「関於進一歩推進戸籍制度改革的意見」(戸籍制度改革の更なる推進のための意見)を発表し、その中で「2020年までに都市戸籍と農村戸籍を合わせた居民戸籍(住民戸籍)に統一する改革方針」を表明した[2]

大卒で40歳未満であれば都市の戸籍を取得できるなど緩和政策が始まっている[3]
朝鮮半島
三国時代から高麗時代まで

朝鮮半島では律令が頒布された三国時代に施行されたようだ。日本の正倉院で発見された新羅民政文書[4]は、その良い例である。

高麗時代には家や家族を単位にして、家籍に属する家族との身分関係などを記録した公文書として戸籍という名称が初めて現れた。

高麗時代には民の身分に応じて制度の内容も異なっていたようだ。すなわち、庶民は州郡県の地方官が毎年戸口を調査して戸部に報告しており、両班(貴族)は、3年ごとに戸籍2件を作成して1つは官庁に置いて、1つは自己家に置いた。内容は、戸主・世系、同居する子、兄弟、甥の義理など族派奴婢を記録した。
日本統治時代

日本統治下では、身分の記載は削除された。
韓国

大韓民国(韓国)でも戸籍は継承され、徴兵制度の運用もあり管理が厳しかった。「戸主制」に基づく制度となっていた。しかし2005年2月3日に、憲法裁判所が韓国民法778条「一家の系統を承継する者、分家した者またはその他の事由により一家を創立したか復興した者は戸主となる」、781条1項「子は(中略)父の家に入籍する」、826条3項「妻は夫の家に入籍する」の三条項について、父系血統主義に立脚した正当な理由なき性差別の制度であるとして下した違憲判決[注 1]に伴い、 翌月2005年3月2日にこれら三条項を撤廃する民法改正案が韓国国会で可決され、2007年大晦日限りで戸籍制度が撤廃された[5]


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